2017年7月5日水曜日

これがフィリピン・カトリック


「私たちの罪をお許しください。私たちも人を許します。」

これは、フィリピン人の80パーセントを占めるカトリックを含む、多くのキリスト教徒が、日曜日のミサ・礼拝、または日々の生活の中で唱える「主の祈り」の一節です。全文は少々長くなりますので、ご興味のある方は、この投稿の最後をご覧ください。

20年前に、ここフィリピン・ネグロス島で洗礼を受けて、カトリック信徒になった私。その後の16年間は日本で暮らし、日本のカトリック教会に通いました。そして4年前のフィリピンへの移住。自身が洗礼を受け、カトリックが大多数の地に家族で引っ越し。

カトリックだけでなく、プロテスタントや正教を全部引っくるめても、人口の1〜2パーセントしかクリスチャンがいない日本。そこから、アジア最大のカトリック国に移り住んだのですから、さぞ居心地がいいだろうと思われるかも知れません。

もちろん、そういう側面も大いにあるのですが、意外にも戸惑うことも多かった。日本の場合、人口構成比でも分かるように、クリスチャンは少数派もいいところ。そのせいか、良くも悪くも自分の信仰に対して、意識が過剰になる傾向があるように思います。これは30過ぎてから入信した私だから、余計にそう感じるのかも知れません。

日本で、キリストについて、神について語る...なんて言うと、信徒でない人はまず一歩も二歩も引いてしまうでしょう。ヘタするとタチの悪い勧誘かと思われて、友達を無くすことにもなりかねない。私にも、自宅に「一緒に聖書について勉強しましょう」という電話がかかってきて、とても困惑した覚えがあります。ただ、断るのは簡単で、「聖書は新旧とも日本語と英語で何冊も持ってるし、毎週イヤでも読んでますので、結構です。」
うわっ、我ながら、なんて鼻持ちならない奴。

ところが、ここフィリピンでは、石を投げればカトリックに当たる。道に寝てるオっちゃんでさえ「God bless us」(我々に神の恵みを)と大書したTシャツを着てたり。日本で教会に通うような人は、「敬虔な」と形容されるほどではなくても、日常の行動にそれとなく控え目なところがあったりするものなのに、こちらでは、超乱暴運転のジプニー(乗り合いバス)の運ちゃんも、やたらと賄賂を要求する悪徳役人も、さらには犯罪者ですらカトリック。この落差は、一体どう受け止めたらいいものやら。

最初はそんな具合に、相当面食らったものの、しばらく時間が経つうちに、このエエ加減極まりない市井のフィリピン人こそ、実は本当に敬虔なカトリック信徒ではないかと、感じるようになりました。

私なりに思い至った、フィリピン・カトリック理解の鍵は、冒頭に記した「許し」。キリスト教は、母体となったユダヤ教が、神と契約に基づいた、極めて厳格な教義を持つことに比べ、愛と許しの教えと言えるでしょう。特にカトリックは、聖母信仰に代表されるように、祈りと慈悲を乞うことが、ほぼ同義。ミサの最初がまず「主よ、憐れみ給え」で始まるぐらい。

この世には、罪と無縁な人間はいない。生まれたての赤ちゃんですら、アダムとイブが犯した罪を、生れながらに背負っていると考えるのがカトリック。ところが、悔い改めて、神に、主キリストに、聖母マリアに、許しを乞えば、どんな大罪でも許されるんですよ。これって常識で考えたら、凄いことです。

心の中で祈るだけでなく、神父さまに罪を打ち明けるのが「告解」(こっかい)。アメリカ映画で見たことがあるかも知れません。打ち明けられた神父さまは「父と子と聖霊の御名によって」罪人を許すわけです。これは「許しの秘蹟」とも呼ばれます。そして、告解の内容は何があろうとも絶対に秘密。相手が警官であろうが、ローマ法皇であろうが、漏らしてはならない。

映画ゴッドファーザー・パート3で、アル・パチーノ演じるマファのボス、マイケル・コルレオーネが、兄フレドを殺害したことを告解し、それを受けた神父が、警察の取り調べにも口を閉ざすシーンがありましたね。

私が思うに、多くのフィリピン人は、私のような理屈で入ったカトリックと違い、悔い改めれば神さまが許してくださると、一点の曇りもなく信じているんじゃないでしょうか。特に日頃、自分の行いに後ろめたさを感じている、違法ドラッグの密売や、売春に従事する人たちほど、週に一度のミサを欠かさないと言われています。

これが当を得ているかどうか分かりませんが、私はそう考えたら、いろいろと合点がいきました。そりゃそうでしょう。教会に行って祈れば、何もかも許されてると本気で信じられたら、約束の時間を守らなくても、借りた金を返さなくても、自責の念は起こらない。(注:個人差は天地ほどあります。誰でもそうだという意味ではありません。)

実際、私が接したフィリピンの人たちは、自分に対して大甘な反面、日本人に比べれば、他人にも比較的寛容な人が多い。あんまり損得がどうのこうと騒がず、相当悪い奴でも、それ相応の罰を受けてるのを見たら、すぐに可哀想...となる。

そう言えば私も、ある親戚のことをいつまでも毛嫌いしてたら、「毎週日曜日に、私たちも人を許しますと、祈ってるでしょ」と、家内に諭されたことがあるなぁ。


フィリピンでは至る所に
イエスさまの肖像が掲げられています

最後にカトリックでの日本語「主の祈り」全文を記します。

天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を
今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。

アーメン


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