2017年7月31日月曜日

中流と下流の間、越え難き谷


このブログを読んでいただいていて、フィリピンで住んだり、働いたりしたことのある方は、おそらく私がフィリピン人の国民性一般に対して、とても好意的な評価をしていると思っておられることでしょう。

元来、天邪鬼な私は、フィリピン人のことを悪く言う人が多ければ多いほど、無理矢理にでも美点を探したくなります。1億のフィリピン人全員を知っているかのように、みんなが怠け者で恩知らずで金に汚く時間を守らないと、一方的に決めつける輩に反論を続けてきました。

でも、それは私の曲がったヘソのせいだけではなく、家内を始め、その家族・親戚・友達、家を建てるために雇った大工さんや職人さん、さらにはメイドさんや、週一でマッサージを頼んでいるセラピストに至るまで、本当にそんなひどい人には、滅多に会ったことがないんですよ。例外と言えば、ビザや免許などの取得で関わったお役所の連中ぐらい。

正直に書きますと、どうやら私は、奇跡的なほどの幸運に恵まれているらしい。親戚に金をせびりに来る人もいないし、アルコールやギャンブルで身を持ち崩した人もいない。さらには覚醒剤中毒者や、その取引に関る犯罪者も。

言葉を変えると、もしあなたがフィリピン人と結婚したら、相手の親戚の中に、こういう厄介な人が少なくとも一人や二人(あるいはもっと)は、いるかも知れない。旅行者であっても、ホールドアップで金品を強奪されたり、お金を騙し取られたりというのは、よく話に聞きます。とても残念なことですが、それもこの国の一面。

そして単に幸運なだけでなく、私がフィリピンではまったく仕事をしていなことも大きい。家族で現金収入を得ているのは、現在家内のみ。専業主夫と言えば聞こえはいいですが、私は一種の「ヒモ」と言えなくもない。気楽なもんです。もちろん移住前に十分な経済的な準備はしたので、無収入でも生活はできますが。

ところが、こちらでビジネスをして、フィリピン人労働者を雇うとなると、とんでもなく大変。つい先週このブログで、日本の過重労働を批判しまくって、フィリピンの愛情溢れた子供の育て方を賛美した、その舌の根も乾かぬうちに恐縮ながら、愛情と甘やかせがごっちゃになっている親が多いのも大問題。

やっぱり褒めて伸ばすのにも限度があって、それが過ぎると、自立心も忍耐力もない依頼心の塊のような人間に育ってしまう。(特に男の子!)フィリピンの歴史的宿痾ともいうべき貧困が、いつまで経っても解決できないのは、どうやらこれが決定的な要因。

景気は上向きとは言っても依然失業率は高いし、誰かに雇ってもらうのは難しい。それでも日本のような規制でがんじがらめな社会とは違い、マニラなどの大都会はいざ知らず、ここネグロスならば、道端で商売を始めることも比較的容易だし、最近では人手不足な職種もある。独立心旺盛で、雇われるより雇う側になろうとする華僑系の人たちが、貧困とは縁遠いのも、分かる気がします。

それにしても、地道に努力や工夫をして、コツコツ生活を立て直そうという思考にならない人が多すぎる。日本人に限らず誰に雇われても、能力不足で失敗して、少し叱責されただけで辞めてしまうし、ひどい場合は備品や道具、お金を持ち逃げしたり。親戚の中で、そこそこ稼いでいる人いれば、自分がいかに哀れむべき生活をしているかを切々と訴えて、お金を要求し、断られたら逆恨み。

フィリピンの最低賃金が何十年も上がらないのは、経営者に言わせると、高い給料を払うほどの労働者が少ないから。知り合いの日本人でも、いくら手取り足取り仕事を教えて世話を焼いても、かんたんに裏切るようなことをすると、嘆くことしきり。

どうやらフィリピン社会には、中流以上で高等教育を享受できたり、低学歴でも定職についている層と、下流の貧困層の間に、決定的に超えがたい「谷間」が存在しているようです。よく考えてみたら、家内はフィリピン大学のマスターだし、弟夫婦を始めとする親戚は、ほとんど大学出。その他に付き合いのある、それほど所得が高くない人たちにしても、楽ではないながら、手に職があってそれなりに生活は安定しています。

実は家内の母は、子供時代は相当な貧困を経験しているんですよ。ところが、祖父母が偉かったんですね。自分たちは飲まず食わずでも、子供にはきちんと教育を受けさせて、6人の子供たちのうち、家内の母を含む3人は教師、他にはアメリカで看護師の職に就いたり、日本に渡って会社勤めをしたり。家内の母はもう亡くなりましたが、存命の叔父叔母たちは、それぞれに悪くない暮らしぶり。

フィリピンの生活が厳しいのは事実でも、貧困からの脱出は不可能ではない(かんたんでもないですが)。まったく「貧すれば鈍する」とはよく言ったもので、何世代も貧困が続くと、そこから逃げ出すことができないと、思考が固定してしまうんでしょうね。

と、偉そうに上から目線で書いている私ですが、たまたま生まれたのが、三度のご飯をちゃんと食べられる家庭だったというだけ。もしフィリピンのスラム出身だったらと思うと、自分の幸運に感謝する気持ち。

日本全体にしたところで、第二次大戦の荒廃の後、西側陣営に属したこともあり、朝鮮戦争特需に端を発した好景気、その後の高度経済成長で、一時はGNP世界第2位にまでなりました。もし降伏した相手がアメリカではなく、ソ連や共産中国だったら、現在の北朝鮮ほどではなくても、1980年代までの東欧諸国のように、自由も経済的な発展も、著しく制限されていたかも知れません。

戦勝国側にいたはずのフィリピンが、植民地時代の大地主や支配者階層がそのまま残り、結果的に農地改革もできず、搾取体質を変えることができなかったのは、何とも不運でした。今の私が気楽な退職者生活を送っていられるのも、私自身の努力や才覚よりも、戦後日本の幸運と、親の世代の努力があってこそ。

そう考えると、どんなに他人の懐を当てにする人が多くても、フィリピンを頭ごなしに馬鹿にする気には、どうしてもなれません。


2017年7月30日日曜日

息子への手紙


この週末、金曜日の夜から土曜日午前中にかけて、息子の小学校で宿泊学習がありました。これはリコレクション「Recollection」というもので、直訳すると記憶、回想、回顧という意味。日本ではあまり聞いたことがないので、私にはどんな学習体験なのか、もう一つピンときません。

家内によると、神父さまのお話を聞いたりして、自分がここまで成長したことを、神さまや両親、先生や友達に感謝しましょう、みたいなものらしい。でも、そんな有難ぁ〜い内容とは関係なく、子供達にとってはパジャマ・パーティ以外の何物でもありません。

お泊りは息子の学年だけで、金曜日の授業は通常通り。放課後一度帰宅して、早めに夕食とシャワーを済ませて、夕方6時に再登校。各自、枕や簡易式のマットレスなど持参で、かなりの大荷物。そしてどの子供も興奮気味で、ちょっとした冒険に出かけるような雰囲気です。これは、枕投げ大会になるのかな?

それだけならば、楽しんできなさいと気楽に送り出すだけ。ところが厄介なことに、両親にまで宿題が出ました。我が子に宛てた手紙を書いて、学校に持ってきなさいとのこと。多分、子供達が、お父さんお母さんからどれだけ大事にされているかを、自覚させる目的なのかと思います。

こういうの苦手なんですよね。おそらく日本人ならば大抵の人は「そんな恥ずかしいことができるかいな」という感じでしょう。夫婦ならばまだしも、親子で「I love you」と言い合うような感性も習慣もない日本。最近では結婚式の時に、子供からの手紙を朗読して、親を泣かせようというロクでもないことが流行っていて、少しは日本も変わってきているのかも知れませんが。

英語で書けと言われたら、無理だと断ることもできたのに、発表するわけではないから何語でもOK。仕方がないので、関西弁でA4用紙一枚に手紙をしたためました。ブログやらSNSで文章を書くことは慣れきっているはずが、この程度の量の日本語を捻り出すのに、エラい時間がかかってしまった。ということで、大変だった分の元を取るために、ここで全文を公開します。


Ken(息子の名前)

もうすぐKenが生まれてから、12年やな。本当はもう少し早く生まれて欲しかったんやけど、ちょっとゆっくりやったなぁ。もう子供は生まれないんかと、ママと一緒に心配してたんやで。お医者さんに診てもらったりしたけど、だめで、実はすっかり諦めてたんや。

もうアカんかと思って忘れてた、2004年のクリスマス。あの時は、尼崎の家で、おじいちゃん、おばあちゃんと住んでた。ママが気持ち悪いというから、おばあちゃんと一緒に、病院に行ったんや。そしたら、Kenがママのお腹におると、分かった。その時はまだ、名前をつける前やったけど。

みんな、すごく喜んだんやで。ママも父上も大喜びや。おじいちゃんは、お前が男の子やと分かってから、喜んでたな。

Kenが、横浜の病院で生まれてきた時、初めて言うたこと覚えてるか? 覚えてるわけないわな。「お前、よう生まれてきたなぁ」て言うたんやで。
しばらくしてから、フィリピンのロラ*も、日本に来てくれた。ビデオで見たことあるやろ。あの時ロラはガンにかかっていて、もうそんなに長く生きられへんと知ってたんや。だから頑張ってビザを取って来てくれたんや。Kenのこと、ものすごく可愛がってくれたんやで。

Kenは日本でもフィリピンでも、いっぱい愛されてるからな。どっちの国も大事にして、どっちの言葉も忘れずに、ちゃんと喋れるようになってほしい。英語は大丈夫やけど、イロンゴはもうちょっと頑張ってな。日本語も、本読んだりインターネットで見て、覚えとかなアカんで。

これからも元気に、一緒にスタートレックを見よな。


父上より


*ロラ=フィリピンの言葉で「おばあちゃん」の意味

さて、土曜日のお昼前、帰宅した息子。手紙のことについて何か言うかと思いましたが、一言もなし。こちらからも敢えて尋ねませんでした。どんな感想なのか、多少は気にもなりますが...。

ちなみに、息子には私のことを「ちちうえ」と呼ばせております。


2017年7月28日金曜日

仔犬 vs 仔猫


仔犬のゴマが我が家にやって来て、早や2週間。キャンキャン夜鳴きするし、餌は食べないし、どうなることかと思いきや、二日も経つとすっかり慣れて、今ではケージに入れる必要もないほど、我が家の敷地を自分のテリトリーと認識したようです。

当初は朝と夕方、散歩に連れて行っていました。周囲は飼い犬も野犬も多く、一度大きな成犬に吠えつかれて、すっかり意気地がなくなったゴマ。それ以来、家の前から離れようとしない。幸い我が家は、何にも建ってない空き地同様の300平米の裏庭があって、別に連れ出さなくても運動不足になる心配はなし。散歩を無理強いするのは止めました。

以前飼われていた場所と同様、ゴマの食事は1日3回。仔犬は一度にたくさんは食べられないので、少量を分けて与えています。家内は、人間の残飯でいいと主張。昔実家で飼っていた犬は、それでも13年生きたそうです。

でも、犬を飼っている日本人に訊くと、それでは塩分が多すぎで良くないとのこと。最近では田舎のシライでも、スーパーに行けばドッグフードは何種類か売っています。半生タイプの缶詰を買ってきて炊いたご飯と混ぜてみたところ、喜んで食べてくれました。ただ、お米は食べさせすぎると、肥満になりやすいらしい。これは要注意ですね。

三度三度の食事をいつも用意しているせいか、すぐに私を「餌をくれる人」と認識。玄関から一歩でると、いつも物凄い勢いで足にじゃれついてきます。今は仔犬で、可愛くていいけれど、もう少し大きくなったら大変そう。それにお前、臭いぞ。そろそろシャンプーするか?

さてこの頃は、すっかりグータラな日常生活のゴマ。ところがこの数日、我が家の庭に異変が。このブログでも何度か取り上げたように、庭には先住動物の半野良猫が3頭。餌場の場所も少し離れているし、猫はかなり夜遅くなってから集まって来るので、犬と猫が鉢合わせすることはありませんでした。

そう思って安心していたら、3頭の中の唯一の雌猫、チャコ美がまだ明るいうちに現れるように。持ち前の愛嬌を総動員して、ミャーミャーと「腹減った」攻撃。仕方なしに早めに餌を出すと、今度はゴマが突進してきて大騒ぎ。逆にゴマの餌にはチャコ美が割り込んで、裏庭は、餌の時間になるとちょっとした内戦状態。


美人のチャコ美姐さん

そのチャコ美姐さん。今日はとうとう朝から顔を出しました。まるでゴマの真似をするように、私が玄関から出たとたん、2頭して足にじゃれつきます。う〜ん、こんなにモテモテなのは初めての経験。そうこうするうちに昼前になり、今度は人間の昼食の用意にかかっていたら、何やら窓の外で、ニィニィ。え? これって仔猫の鳴き声?

そうなんですよ、やたら餌をねだると思ったてたら、チャコ美は臨月だったのです。結局その後数時間で、合計4頭の仔猫を出産したチャコ美。姐さんじゃなくて、これからはチャコ美母さん。


ゴマが珍しげに近づくと、いつもは人にも犬にも威嚇などしないチャコ美が、エラい剣幕で「フーッ」と全身の毛を逆立てる。やっぱり母は強い。生憎の土砂降りをモノともせず、出産場所の庭の隅から、いつの間にかバンブーハウスに陣取ったチャコ美一家。しばらくは、仔犬と仔猫の生存を賭けた餌争いが続きそうです。

それにしても、奴らが来てから、米の消費量がずいぶん増えたなぁ。


仔犬のゴマ

自宅の竣工祝いで、初代メイドのカトリーナの家から貰ってきた仔犬2頭、タロとジロがたったの1ヶ月で相次いで死んでしまって早3年。そして道端で拾ってきた仔猫のチャコが、5日目に死んでから2年経過。もうペットは飼わないと、その度に言ってきたのに、気がつくと我が家の裏庭には、鶏が4羽に、半野良ながら猫が3頭。

それぞれ行きがかかりの事情があって、鶏は家内が飼い始め、猫は天井裏のネズミを追い払うための方便で餌付け。それほど懐かれているわけでもなく、言ってみればヤツらにとって、我が家の住人は自動給餌器みたいなもの。空腹の時だけ近寄ってきても、通常はそ素っ気ないものです。ところが、今度という今度は、かなり純粋に愛玩が目的で、性懲りもなく仔犬を1頭飼い始めてしまいました。

事の発端は、近所で活動する日本のNGOにインターンとして赴任した、女子大生Tさんのフェイスブック投稿。このNGOの宿舎兼トレーニングセンターで、仔犬がたくさん生まれたので、貰ってくださいとアップされた、まだ目が開くかどうかの可愛い仔犬の写真に、私は一発KOを食らってしまったのでした。

家内に相談すると、雌犬はポロポロ子供を産むのでたいへんだから、雄犬だったらいいよ、とのこと。早速Tさんに連絡したら、ちょうどいいのがいるらしく、乳離れしたらどうぞと、二つ返事の快諾を得ました。

さて、名前はどうしよう。先代がタロとジロだったので、次はサブロか? でもこの案には、家内が難色を示しました。「日本語の名前つけたら、みんな死んじゃうでしょ。」え〜っと、チャコは日本語じゃなかったと思うんですけど...。あんまり、こういうことに拘らない家内にしては、珍しく譲らない。しかも名前は「スティーブ」に決めたんだそうです。

スティーブというと、マックィーンかジョブス? 「おいスティーブ、餌の時間やで〜。」それって、何か嫌だ。ゴッついオっさんが出てきそうで、ちっとも可愛くないし。そんな名前にするんだったら、貰ってくるの止めようかとさえ思いました。ここで夫婦喧嘩しても仕方がないので、仔犬の顔を見てから決めることに。

そうこうするうちに、いよいよ仔犬のお迎え当日。写真では「のらくろ」みたいな真っ黒な仔犬が写ってましたが、やって来たのは胡麻班(ごまふ)模様。Tさんによると食欲旺盛で元気なヤツとのこと。家の中には入れないのが我が家の飼育方針なので、ガレージに放しておいたら、予想していた通り、初日は母犬や兄弟たちが恋しいらしく、ずっとキャンキャン鳴き通し。餌は食べないし、すぐに門扉の隙間から脱走するし。


四六時中付きっ切りというわけにもいかず、仕方がないので、慣れるまでしばらくは、ケージに入れておくしかありません。タロとジロの時は、2頭で寂しくなかったのか、それとも元々そういう性格だったのか、こんなに面倒ではありませんでした。ただ、あまり元気に走り回った印象は残っていなくて、最初から大人しかった。

ところで問題の名前。生まれた場所で「ゴマ」と命名済み。もう定着しているようだし、家内の意見を尊重するフリをして、スティーブ・ゴマとしました。実際は、私もメイドのネルジーも「ゴマ」としか呼ばないので、結局家内もゴマで納得したようです。

そんなことは本人(犬)には関係なくて、夜になっても鳴き続け。これでは家族が眠ることもできません。家の中に入れても、人影が見えなくなるとやっぱりキャンキャン・クンクン。可哀想だと思いつつも、ケージごと倉庫に放り込んでおきました。

「仔犬」「夜鳴き」でググったら、いちいち構っていたら、鳴けば構ってもらえると学習してしまうらしい。可哀想でも飼い主と犬の我慢比べをするしかない、とありました。なるほど。倉庫に閉じ込めるのはともかく、放置するのは悪い方法ではないようです。

ということで、第一日目だけで長くなってしまったので、続きは次の投稿へ。


2017年7月26日水曜日

私的フィリピン美女図鑑 クリスティン

毎週恒例となってきたフィリピン美女イラスト。今日は、ネットで見つけた素材を参考にして描いたものとは、少々趣きが違いまして、このネグロス島シライに実在する女性がモデルです。

このブログで何回も紹介した、ティンティンこと、クリスティン。私にとってフィリピン移住後、家内経由ではない初めてのフィリピン人の友人にして、元イロンゴ語(西ネグロスの方言)の先生。今我が家で働いている、メイドのネルジーを紹介してくれたのもティンティンだし、最近では、ドライバー兼カーレンタル業を営む旦那さんにも世話になってます。小学生の息子さんも含めて、家族ぐるみのお付合い。

知り合って最初の誕生日に、似顔絵を描いてプレゼント。ずいぶん喜んでくれて、しばらくフェイスブックのプロフィールに使ってました。今回は、それをベースに、ディテールをさらに描き込み。

わざわざ「美女図鑑」にアップするだけあって、ティンティンは実に魅力的な人。ただ顔立ちが整っているだけではなく、とても細かい配慮ができる。時間もお金もちゃんとマネージメントできて、一時期は、日本のNGOに勤務。日本人からもフィリピン人からも、信頼され慕われる、お母さんかお姉さんみたいな存在です。

今では、シライ市内の公立高校の先生。私の子供が通う学校ではありませんが、彼女のパーソナリティからして、まさに天職。

さて今回のイラスト。
着ているコスチュームは、フィリピンの伝統的な衣装の「テルノ」。バロン・タガログと並ぶ正装で、デビュー・パーティ(成人式)や結婚式にも着用できるフォーマルなものです。都会的に洗練された美人というより、ローカルで親しみやすく、シライ小町と呼びたくなる美貌なので、敢えて民族衣装を選びました。やっぱり似合いますね。


本人曰く「私の低い鼻は、フィリピンの誇りなのよ。」これは、説明が必要な言葉。つまり、征服者スペイン人の血が混じっていない、生粋のマレー系という意味。ティンティンが考えたオリジナルではなく、フィリピンの著名人が、そういう趣旨の発言をしたらしい。(他ではあまり聞きませんが)

もちろんこれは、メスティーソ(混血)を非難しているのではありません。私の知る限りフィリピンで、スペイン系かどうかでの差別は聞いたことはない。心の底に、かつての植民地時代の、つらい民族の歴史を忘れない、強い意志を秘めていることの表れなんでしょう。

ところで以前から、ティンティンって何となく見たことある顔だなぁと思ってました。一体誰だったか、思い出せないまま4年が経過。そして、イラストが完成に近づいた時に、やっと分かった。若い頃の菊池桃子さんだ!

菊池桃子さんは1980年代のアイドルで、私が20代だった頃、それはそれはすごい人気でした。映画にドラマ、テレビのバラエティ、CMなどに出演し、1985年には武道館での観客動員数で、ビートルズの東京公演を抜いて、当時の新記録を作ったりしたこともあるそうです。

今改めてネットで検索して、菊池さんの写真を見ていますが、とても愛らしいながら、確かに鼻が高いとは言えない顔立ちですね。


過去の「私的フィリピン美女図鑑」は、こちら。

2017年


2017年7月25日火曜日

命より大事な仕事なんかない


日本人は勤勉で真面目、それに引き換えフィリピン人は怠惰で雑。
もう、ネットでも実際の会話でも、いい加減聞き飽きたフレーズ。フィリピンに数回渡航しただけの初心者から、フィリピン人と結婚して、何年もフィリピンに住んでる人まで、安易に口にする、この典型的レッテル貼り発言。

日本の外に住み、日本式の労働から離れてみると、私には、ここ最近の日本人の勤勉さが、ひどく歪に見えます。

少し前、某大手広告代理店勤務の若い女性が過労死して、かなりの騒ぎになったと思ったら、今度は2020年東京オリンピックのメイン会場、新国立競技場建設現場で勤務していた新人社員が自殺。月間時間外労働が200時間を超えていたと言います。

厚生労働省が毎年発表している「過労死等労災補償状況」によると、2006年から2015年の10年間で、自殺を含む過労による死亡者が、合計4,615人だったそうです。これは過労死、または過労自死と認定された数字だけなので、実際には、もっと多くの人が働き過ぎで命を落としているのは、間違いありません。(出典:BLOGOS

死ぬまで働く、働かせる国民や社会が、他国よりも優れていると誇れるようなことなんでしょうか? たとえ怠け者と言われても、自分の命や健康、家族との生活を大事にするフィリピン人の方が、本質的にはずっと聡明でまともだとは思いませんか?

こういう話をすると決まって、高度経済成長やバブル期には、同じぐらいか、もっと働いていた。残業が100時間や200時間なんて普通だという人がいます。私が社会人になりたての1980年代の半ばは、バブル経済真っ盛り。私自身や周囲の人も、時には相当無理をしていた記憶があります。

しかしながら、当時は働けば働くだけ収入が上がったし、高額商品が飛ぶように売れ、自分のやった仕事が成果に直結する充実感がありました。それに少なくとも1週間に1日程度は熟睡できる日があり、それなりにメリハリもあったと思います。ところが今はどうでしょう。先の見えない、低賃金のやらされ仕事。終わったと思ったら、変更・修正・やり直し。労いの言葉はなく、できて当然。できなければ人格を否定するような叱責。

私の退職前の約10年間ほど、自分の経験も含めて、こういう環境の職場を見聞きすることが増えました。特に小売業や飲食店関連、顧客の苦情を直接受ける部署などでは、現場の人たちにかかる精神的な負荷は、相当なものだと思います。自分がその仕事が大好きで、寝食を忘れて打ち込んでいるのとは、だいぶ様子が違う。

ここまで追い詰められて、仕事を休めない・辞められないと思い込む人が多いのは、日本の教育に、何か致命的な欠陥があるとしか思えません。省みて、フィリピン人の家内が、子供に接する様子を思い出してみるに、叱り方がまず違う。家内はフィリピンの母親にしては比較的厳しい方だと思うけれど、逃げ場なしに追い込むような叱り方は絶対にしません。

また、褒める時はちょっとオーバーなくらい褒める。朝送り出す時や夕方帰宅した時には、子供を抱きしめて、しっかり愛情表現。子供が少しでも体調不良を訴えたりしたら、学校を休ませるのに躊躇しない。子供が失敗したり悪さした時でも、まず言い訳をちゃんと聞くし、何より、声を荒げて怒鳴ることがない。

こういうフィリピン人の親の態度を、甘やかせ過ぎと言うのは簡単。でも私が真似しようとしたら、かなりの忍耐が必要です。そして、こうやって育った子供は、自分にも他人にも優しい大人になります。その結果、国全体として経済や軍事の分野で他国に劣ることになったとしても、国民が働き過ぎて寿命を縮める国より、よっぽどマシ。

そもそも仕事というのは、食扶持を稼ぎ、自分や家族の日々の暮らしを安定させるのが第一義。今の日本は、やりがいや自己実現といった、高尚な話をする以前の問題が、蔑ろにされすぎです。朝、子供の顔見たり、家族と夕食を一緒に食べることを、諦めないといけないような仕事は、普通ではない。定刻の夕方5時になったら、さっさと家路につくことが、当たり前だし、命より大事な仕事なんて、あるはずがない。

もういい加減「寝てない自慢」や「忙しい自慢」をするような社会は、終わらせるべき。プロのスポーツ選手が同じこと言ったら、自分のコンディション管理すらできないアホだと思われますよ。

労働時間は1日8時間で、休息と睡眠は十分取る。無理だ、できないと思ったら、相手が誰であろうとはっきり意思表示をする。どうも今の日本では、誰も本気でこんな基本的なことを、子供に教えていないらしい。むしろ、そんなことを言うと、努力や我慢が足りない、となるんじゃないでしょうか。

今日はたまたま目にした、過労死に関する記事を読んで、怒りに任せて書きなぐってしまいました。最後まで読んでいただいた方、感情的な文章に付き合ってくだり、ありがとうございます。


2017年7月24日月曜日

気温逆転の7月


昨日(2017年7月23日)は、日本では「大暑」だったんだそうですね。この大暑を含む24節気、2000年以上前の中国・春秋戦国時代に決められたもの。春分や秋分は分かるとしても、現代の日本の暦に当てはめると、立秋が真夏の8月初旬だったり、大雪がまだ初冬の頃の12月前半だったりで、実際の天候とのギャップが大きい。昔からテレビの天気予報で、やたらと使われてる理由がイマイチ不明。

大暑も、以前はまだ夏休みが始まったぐらいで、それほど暑くない印象だったのが、ここ最近ではちょうど最初の猛暑ピークが来る時期に重なり、妙にピッタリになってしまいました。今年も相変わらずの厳しい暑さのようで、週間予報で各地の気温を見たら、35〜32度が続く模様。

私が子供だった50〜40年前って、日本の夏はここまで暑くなかったはず。確か、どんなに気温が高くてもせいぜい33度止まりで、それも一夏に数回ぐらいしかなかったように記憶しています。いつから35度が当たり前になり、年間最高気温が40度にまでなるようになったんでしょう。40度なんてフェーン現象でもない限り、あり得なかったんですけどねぇ。

日本では暑さに喘ぐ7月、フィリピンでは本格的な雨のシーズン。日本と天候パターンが反対で、4〜5月に最も暑い季節の後、6〜8月は雨季。また上陸する台風も増え始め、これまた日本と違って、多くは東の沿岸から襲来します。

こうなると、温帯の日本と熱帯のフィリピン、特にここネグロスは、気温が完全に逆転。日差しの強さはさすがの熱帯でも、ほとんど毎日曇りがちで、午後から深夜にかけては、決まって土砂降り。元々年間を通じても、クーラーはよほど暑い日の就寝時にオフタイマーで数時間使う程度。今は朝晩、扇風機でも涼し過ぎるぐらい。おそらく最高気温は、連日30度止まりだと思います。

日本よりやや小さい程度の国土面積のフィリピン。他の島々や、マニラ首都圏がどうなのかは分かりませんが、ネグロス島の自宅にいる限り、少なくと大阪近辺に比べると、はるかに暮らしやすい気候であることは、間違いありません。そしてネグロスには、花粉も黄砂も飛んでこない!

聞くところによると、夏が異常に暑くなったのは日本だけではなく、ヨーロッパでも、以前は涼しくて、どの家にもクーラーはなかったのに、最近は堪えられなくなって、冷房設備を自宅に導入する人が増えているらしい。

このネグロスと実家の兵庫県尼崎を、単純に気温の過ごしやすさだけで比べると、11月中旬頃から翌3月ぐらいまでは、冬の寒さのないネグロスに軍配が上がり、暑くなる6月中旬から最高気温が30度以下に戻る9月末ぐらいも、ネグロスの方が凌ぎやすい。つまり、日本で居心地がいいのは、4・5・10・11月の4ヶ月程度。しかも、4〜5月のネグロスの真夏にしても、気温はせいぜい35度止まりで、朝夕はぐっと涼しくなります。

だから、みなさんネグロス島に移住しましょう...などと気安いことを言うつもりはないけれど、ある程度経済的に余裕がある退職者の方ならば、避暑にも避寒にも最適なネグロス島で、日本の気候が厳しい時だけでも長期滞在するという選択肢も、あるんじゃないかと思ってしまいます。


2017年7月21日金曜日

近くて遠いドゥマゲテ

数日前、シライ市内のDepED(フィリピン教育省)に勤務する家内が、隣州・東ネグロスの州都ドゥマゲテに、セミナーのため3泊4日の出張で出かけました。グーグルマップで調べてみると、シライから約280kmの場所。同じ島の中とは言え、これは結構な移動距離です。しかも平坦な道ではなく、中央部の山岳地帯を縦断するルートなので、バスや車しか交通手段がないネグロスでは結構大変。


所用時間は、ざっと6時間。日本に置き換えて起点を大阪とすると、西は広島、東は静岡までに相当。(地図を使って半径を調べるサイト)これは新幹線に乗って然るべき旅行ですね。新幹線はおろか、旅客鉄道そのものがないネグロス。現在鉄道が営業運転しているのは、マニラ首都圏のみのフィリピン。ドゥテルテ大統領になってから、マニラからの長距離鉄道を建設しようという動きもあるようですが、ネグロス島にそんな話がでるのは、何十年先になることやら。


電車を走らせるのはまだまだ夢だとしても、せめてこの距離ならば、小さなプロペラ機でいいから、航空便があればと思います。シライにもドゥマゲテにも、ちゃんと空港があるんだし。

マニラや隣島のセブまでは、一日数便ものフライトがあって、1時間前後で行くことができます。大使館・領事館に用事がある時は、日帰りでも大丈夫。ところが同じ島なのにドゥマゲテとなると、どうしたって1泊旅行。しかも山道を含んで片道6時間なので、疲れ方が半端ではありません。家内からも到着早々に「お尻が痛い」とメッセージが来ました。

実は私、ドゥマゲテに行ったことがないんですよ。いいところらしいですね。ウィキペディアによると、人口は約10万人。シライよりもまだ規模が小さいけれど、シリマン大学を始め大学がたくさんあって、風光明媚な学園都市として知られています。しかも、ビーチリゾートや、ホエールウォッチングを楽しめる場所へ行くのも便利。日本人を含む、海外からの留学生も多いそうです。

ネグロス島に移住して4年。こんなに不便じゃなければ、毎年でも夏休みには行きたいぐらい。どうも東西ネグロスの往来がこんな状態なのは、単に地理的な問題だけではなく、ひょっとして文化的な背景があるんじゃないかというのが、私の見方。

つい最近、東西ネグロス州が一つにまとまって「ネグロス・リージョン(地方)」が発足しましたが、それ以前は、シライのある西ネグロス州は西ビサヤ地方に、ドゥマゲテのある東ネグロスは中央ビサヤ地方と、別々の行政区分でした。

なぜかというと、西の言葉はイロンゴ語で、東はセブアーノ語。ネグロスの東西はマンダラガンやカンラオンの高い山並みに隔てられて、昔から人の行き来が少なかったと推測されます。それより海峡を渡った方が交易は簡単なので、西はパナイ島のイロイロ、東はセブとの結びつきが強くなったのも理解できる。

もちろん今では人の交流はあるけれど、どうも地元の人にはイマイチしっくりこないことあるらしい。家内に言わせれば、セブアーノ語は響きが硬く、田舎っぽく聴こえるんだとか。学生時代に愛の告白されたけど、それがセブアーノだったという理由で相手にしなかったんだそうです。

確かにイロンゴ語の方が優しい感じがして、特に女性が喋ると得も言われぬ愛嬌が。でも外国人には、目くそ鼻くそを笑うの類で、どっちもマニラっ子からすれば「ビサヤの田舎もん」で一括り。

それはともかく、フィリピン国内には行きたいけれどまだ行ってない場所が、山のようにある私。そろそろ何かしらの理由を作って、まずは近場から、私の中のフィリピン白地図を埋めていきたいと考えています。


2017年7月19日水曜日

私的フィリピン美女図鑑 マイティ・フィリピーナ

前回の王女カンシライに続いて、2本目の美女イラストです。この企画(?)、有難いことに、何人かの方から好評を頂いております。調子に乗って、今回はちょいセクシー路線。

今日のタイトルは、「マイティ・フィリピーナ」。フィリピンでは、アメリカンコミックのヒーロー映画が大好きな人多いらしく、街を歩いていてもスーパーマンやスパイダーマンのTシャツ着ているのを、とてもよく見かけます。

特に最近では、ワンダーウーマンが人気のようで、ネットや雑誌で、ワンダーウーマンのコスプレしたモデルの写真がちらほら。やっぱりこの国では、元々女性の地位が高く強いからでしょうか。強くてしかも魅力的というのが、とってもウケる。フェミニズムと、セクシーさを強調することが、何の矛盾も確執もなしに両立している印象。


そんな訳で、フィリピン版ワンダーウーマンをイメージしてイラストを描いてみました。ビジュアル的には、ワンダーウーマンより、キャプテン・アメリカの女性版と言うべきか。フィリピン国旗をモチーフにしたコスチュームに身を包んだ、強ぉ〜いフィリピーナ。描いてみたら、ヒーローではなくて、女子プロレスの選手みたい。

赤と青の配色と星の構成要素が似ていので、星条旗のイメージになるんですよ。アメリカナイズされたカルチャーが、ずいぶん浸透しているフィリピン。グラフィックデザインのセンスが、何となくアジア離れしているのは、こういうことも原因かなとも思ったり。

背景にしたのは、黄昏時のマニラ首都圏・マカティ市に林立する高層ビルと、ボクシングジム。フィリピンって、男女を問わずジム通いする人が多い。ボクシング大国のフィリピンだけあって、筋トレだけではなく、ボクシングやテコンドーのジムも併設。女性でもキックボクシングしたりする人が、意外に多かったりします。

ヒーロー映画の本場アメリカだと、悪と戦い正義と平和を守るのは、やっぱり筋骨隆々のマッチョガイ。女性を主人公にした物語もないわけではないけれど、ワンダーウーマン以外で思い浮かぶのは、バイオニックジェミーぐらい(古ぅ)。他は仇役だったり、男性ヒーローのサポートだったり。探せばあるといっても、まだまだメジャーとは言い難い。最近のバイオハザードとかイーオン・フラックスは、明らかに日本の影響で、攻殻機動隊に登場する「少佐」こと素子(もとこ)がオリジナルでしょう。

でも、フィリピンを舞台としたヒーロー映画を作るんだったら、私は女性が主役の方が似合う気がします。フィリピン男性には気の毒ながら、この国の男が、力づくで問題を解決しようとすると、だいたいロクなことにならない。

イラストの巧拙はともかく、いくらフィリピン女性と結婚しでも、日本にいた時には、フィリピンを絵にするのに、こういうモチーフは選ばなかったかも知れません。実際に住んでみて初めて実感できることも、たくさんあるものですね。


過去の「私的フィリピン美女図鑑」は、こちら。

2017年


2017年7月17日月曜日

筒抜けゴシップ


ここネグロス島では、朝も昼も夕方も、オっちゃんやオバちゃんが道端にタムロして、何やら楽しそうにお喋りしているのをよく見かけます。奥さん連中が、家事の合間に...というようなレベルではなく、数時間から半日も同じ場所にいる人も。そんなに長い事、よく喋ることがあるなぁ。

家内によると、別に大したこと話してないし、ほとんどは隣近所や知り合いのゴシップなんだとか。井戸端会議での噂話は、フィリピン人に限らず日本でも好きな人は好きだし、有る事無い事、特に誰かの浮気やら色恋沙汰は、あっと言う間に拡がりますね。

ただフィリピンの場合、メイドさんや運転手など、家族以外の使用人が身近にいるせいか、一次情報の精度が変に高くて、単なる憶測ではない話が、簡単に家の外に漏れたりします。また、ネグロスのような田舎では、近所付き合いが濃厚で、取り立てて詮索しなくても、お隣さんのプライバシーが垣間見えてしまうことも。

そう言えば、我が家のメイド、ネルジー。たまにサリサリ・ストア(町内に必ず一つはある、小さな雑貨屋さん)へお使いを頼むと、店番の女性にいろいろと根掘り葉掘り訊かれるんだそうです。いつも「インタビューされました」と笑いながら報告。

こういうのは罪が無くていいけれど、1ブロックほど離れたお金持ちの家は、メイドやガードマンが見聞きしたことが、その隣家に住む、家内の友達ナンシーに伝わって、そこから向かいの婆ちゃんや、角の未亡人など、あっと言う間にサブディビジョン(宅地)中に。

年老いた母親と息子の仲が悪くて、息子の方が「早く死んだらいいのに」と怒鳴ったとか、メイドさんにロクに食事もさせないから、すぐに辞めちゃうとか。この間などは、私の息子と同級生の娘さんが、テストで15点(100点満点で)しか取れなかった、なんて話まで。

他所事だからと。無邪気に面白がってもいられません。まだまだシライ市内では数人しかいない日本人。下手なことをすれば、情け容赦なしにゴシップネタにされるのは目に見えています。もう20年以上も昔、日本から出張してきた私にフィリピンを紹介してくれた、師匠のような存在だった、マニラ駐在の先輩社員。メイド〜運転手経由で、夫婦喧嘩したことまで、翌朝にはオフィスのローカルスタッフ全員に知れ渡っていました。

これでは夜遊びもできないと、その手の場所に行く時は、自動車運転禁止の社内規を破って、自分でハンドルを握ったそうです。(今になると、それでもバレてたんじゃないかと思いますが)

そんな悪い噂を流されないためには、まず軽はずみなことをしないのが一番。さらには、周囲に愛想よくして、メイドさんはもちろん、サリサリストアのおばちゃんにも、隣の空き地で水牛を放牧してる牛飼いのオっちゃんにも、会えばちゃんと挨拶して、世間話の一つでもすることが大事。まぁ、これはフィリピンだけで通用することでもないですね。


2017年7月15日土曜日

群れる日本人


日本を離れて4年余り。たまに一時帰国したり、日本からの来客時は別とすれば、この4年間、日常生活で日本人と顔を合わせたり、まとまった日本語の会話をすることなく生活してきました。息子は日本国籍があるので間違いなく日本人。日本語も忘れてはいないけれど、まだ12才だし、父と息子ということもあって、そんなにしょっちゅう喋るわけでもありません。

だからと言って、それが苦痛とは感じないし、ネット経由での日本語コミュニケーションは、このブログを始めとして、フェイスブックにツィッターで十分。日本の家族から時々メールも来ます。むしろ私には程よい距離感で、疎ましくなったらスマホやパソコンを見なければいいだけ。場合によってはブロックという手段もある。

そんな環境に身を置いて、日本や日本人全般を外から眺めて考えるに、どうも日本人というのは、組織を運営していくのが致命的に下手クソなんじゃないかと思えてきました。

特にそれを顕著に感じるのが、非営利団体。具体的には、隣近所やマンションなどの自治会、PTA。私がかつて所属していた、カトリック教会の信徒会とか、アマチュアコーラスグループなんてのも。もっと自然発生的なママ友の集まり等も、入るかもしれません。

同好の士や、偶然知り合った気が合う者同士が、数人集まってるうちは平和なのに、5人10人となり、リーダーを決めたり、責任を分担をするようなレベルになると、なぜか強烈な同調圧力が生じます。最近の言い方だと「空気を読む・読まない」というヤツ。別に誰がルールを決めたわけでなくても、グループ内だけで通用する、変なタブーができてしまう。

これが勤め先だったら、それも給料分と諦めて、多少の居心地の悪さも我慢するのも、分からないではありません。しかしながら当然限度もあって、自分で自分を精神的に追い込んでしまうのはやり過ぎ。最近の日本でようやく問題視するようになった、過重労動や過労死は、そんなところに原因があるのは、経験的に間違いないと思います。

ところが仕事と違って、そこから離れても、ただちに生活に困るという事情はないはずなのに、仲間はずれにされたり、グループから除外されたらもう生きていけない、みたいな錯覚を起こす人が、どうも日本人には少なくないようです。

そして海外に住むと、一度は耳にするのが「日本人会」。数十人から百人以上の日本人が同じ地域に住む場所には、たいていあるみたいですね。国によっては、生活そのものに危険があって、互助組織を作らないと暮らしていけないケースもあるかも知れません。日本人でなくても、チャイナタウンやコリアンタウンのように、同じ民族が集まって住むエリアができるのは、それほど珍しくはない。

ただ、私が知る限りでは、日本人が海外でこの手の組織を作ると、まったく合理性のないヒエラルキーができてしまうようです。分かりやすい例だと、一番エラいのが、大使館・領事館などの日本政府関係者で、次が商社や金融機関勤務者、その下がメーカー勤めになり、さらに下が現地雇用の日本人。私のような無職の移住者は、埒外ということに。

少し前のことながら、私がご本人から直接聞いた話。マニラ首都圏に住む日本人の女性が集まって、地元のお客さんに集まってもらう機会に、コーラスを披露しようとなった時のこと。日本人を代表しての発表なので、恥ずかしい歌は聴かせられないと、音程が外れる人や、事情があって時間通りに集まれない人を、みんなで糾弾するような雰囲気になってしまったんだとか。私にその話をしてくれた人は、慣れないフィリピン暮らしも相まって、とうとう鬱病に。

本来、娯楽や息抜きのための集まりであっても、人数が増えるとお互いが行動を監視し合って、少しでもそこから外れる人を「グループの趣旨にそぐわない」「他のメンバーの迷惑になる」とか言い出してしまう。これってスポーツをナントカ道と呼んで、精神修養の場にしないと気が済まない、日本人独特のメンタリティも関係している気がします。(当然ながら、例外もたくさんありますよ。)

そんな訳なので、どちらかと言うと、他人と同じことをしたくないヘソ曲がりな私は、ここネグロスにもある日本人会とは一切の接触をしていません。この会がどんな人の集まりで、どんな活動をしているのかも、まったく知らない。なので、会の良し悪しも分かりません。

もちろん、日本人の顔を見たくないのではなく、何人かのフィリピン在留邦人の方々とは、家族ぐるみのお付合いをさせてもらってます。私としては、それで十分だし、退職して海外移住までして、なぜ余計な気を使い、ストレスを溜めてまで、日本人(特に気難しい高齢者)同士で群れたがるか、さっぱり理解できません。


2017年7月13日木曜日

私的フィリピン美女図鑑 王女カンシライ

かなり唐突な感じがするかも知れませんが、私はイラストを描くのが趣味。元々、美術系の大学を出て、デザイナーとして28年間仕事をしてきました。プロのイラストレーターではないのですが、デザイン業務で覚えたパソコンのソフトを使い、ずっと趣味として続けてきた次第。

多分コンピュターではなく手描きだったら、完全にギブアップしてしまったことでしょう。画材は高いし、面倒で手の汚れる作業は、50歳を過ぎた今ではとても無理。第一根気が続きません。

昔はかなり大掛かりなシステムでないと、稼動できなかったような描画アプリも、今では普通に市販されているパソコンで、自由自在に操作可能。しかも、年々複雑なことができるようになり、30年前に比べれば、表現能力は驚くべきレベルに到達しています。

そういう訳でフィリピン移住後も、早期退職生活の暇に飽かせて、何枚もイラストを描いてきました。製作環境は、日本でもフィリピンでもまったく同じ。画像素材はネットでいくらでも探せるし、本当に便利な世の中になったものです。

とは言え、せっかくフィリピンに住んでいるので、できるだけフィリピンや熱帯地方に所縁のあるモチーフを選んでいます。


最初の頃に描いた、近所にある古い建物
今でも現役の商業建築でコンビニが入居してます。



熱帯魚





アオウミガメ



オウムとビーチ

ここ最近は、やっぱり人物、特にフィリピン女性をモデルにしたイラストを好んで描いてます。そこで選んだのが、ネグロス島の伝説に登場する王女カンシライ。以前にもこのブログで投稿しましたね。王女の名前は、私たちの住むシライ市の名前の由来になったとも言われています。

スペイン侵略のはるか昔、すでに交易で栄えていたネグロスに、カンシライという王女がいました。勇敢にもこの王女さま、島民を率いて自ら短剣を振い海賊と戦ったそうです。やっとのことで勝利を得て海賊を追い払ったものの、傷を受けて命を落としたカンシライ。手厚く葬られた彼女の墓から、一本の樹木が育ちました。それがカンシライの木。今でも、シライ市の木とされています。

これは伝説で、王女カンシライが実在したかどうかは、定かではありません。ですが私は、この物語にたいへん感銘を受けて、彼女をイメージしてイラストを描いてみました。背景の家屋は、100年前に建てられて、現在シライ市によって維持運営されている博物館。その他のモチーフは、ネグロス島で見られる鳥や植物で構成しました。


別に当時の装束などを再現したわけではないし、カンシライがどんな顔をしていたかなんて、誰も知らないので、私の想像で好きなように描いただけ。でも、イメージを膨らませて一枚のイラストにするという作業は、やっぱり楽しい。

そんな訳で、フィリピーナをモデルにしたイラストを、今後も描いて、「私的フィリピン美女図鑑」と称して、時々このブログに投稿することにしました。下手な素人の趣味に付き合わせて申し訳ありません。


2017年7月12日水曜日

裏庭の三角関係

今日は、約2ヶ月前に投稿した、我が家の裏庭にやってくる猫の話の続編です。天井裏で騒ぐネズミ対策で、餌付けした猫。お陰でネズミはいなくなり、最近では裏庭で過ごす時間も長くなりました。ガレージに停めた車の下で、よく昼寝してます。


もう半野良から3/4野良ぐらいまでにはなったでしょうか。以前に飼っていた猫の名前が、チャコだったので、その後継者としてチャコⅡ(ツー)と呼んでいます。このチャコⅡ、餌の時間にはずうずうしく窓辺に来るくせに、いまだに近づくと「シャー」と全身警戒感丸出しで威嚇。誰が食わしてくれてるのか、まったく理解していません。

ところが、全然可愛くないチャコⅡには、不似合いな美人のパートナーがいるようです。夜だけ姿を見せる、キジトラの雌猫。最初はチャコⅡと一緒に餌を食べに来ました。この子は、とても愛想の良くて、たまに一匹で少し早く来ては「みゃ〜」と催促します。近づいても逃げないので、まるで元から我が家の飼い猫みたい。


名前はチャコⅢ(スリー)にしようかと思いましたが、言いにくいので、3を日本語で「み」と読んで、ちゃこみ。女の子なので「チャコ美」としました。

こんな具合に、チャコⅡとチャコ美のカップルが、裏庭で平和に暮らすのか...と思ってたら、そこに第三の猫が現れました。チャコⅡより一回りは大きい茶トラの雄猫。夜になると、裏庭で猫同士がエラい鳴き声で喧嘩してるのが聞こえるのは、こいつだったんでしょうか。


チャコⅡは右後ろ足が不自由で、尻尾もつけ根から無くなってのに対して、この茶トラは健康そのもの。歩き方も堂々としていて、見るからにちっちゃな虎。ここ何日かは、こいつが餌を独占している模様。

順番から言うとチャコ4(フォー)になるけれど、これまた言いにくいので、ちょっと捻って「チェコフ」にしました。ロシア人みたいな名前ですが、私たち家族は揃って「スタートレック」のファン。チェコフというのは、スタートレックに登場する宇宙船エンタープライズの操舵手なんですよ。ちなみにチャコは、同じシリーズの宇宙船ボイジャーの副長、チャコティーからもらいました。

さて、このチェコフ。日に日に態度がデカくなってきてるなぁと思ったら、今日はとうとうチャコ美と連れ立って餌を食べにきました。うわ、チャコⅡ、彼女を取られちゃった。

三匹同時には決して姿を見せない、チャコⅡ、チャコ美、チェコフ。どういう関係になっているのかは、実のところよく分かりません。餌付けの目的がネズミ除けなので、三角関係でも何でも、猫の数が増えるのは問題なし。うまくいけば繁殖して仔猫誕生となれば、さらによし。そう言えば、心なしかチャコ美のお腹が大きくなったように見えます。父親はどっちだ?


2017年7月9日日曜日

フィリピン許しの精神 「キリノ大統領の決断」

先週投稿した「これがフィリピン・カトリック」で、フィリピン人のメンタリティに、カトリックの教義が与えたであろう影響を、自分なりの視点でまとめました。私としては、表面的にはエエ加減に見える一部のフィリピンの人々が、実はカトリックの教えに忠実なのではないかと、少々の皮肉とフィリピンへの愛情を込めたつもりの執筆内容。

ところが私の筆力が及ばず、「だからフィリピン人やカトリック社会は、日本人には理解できない」なんて、当方の意図とはずいぶん外れたコメントも頂戴してしまいました。そもそも1億人以上もいるフィリピン人や、12億7千万人もいるカトリック信徒を一括りにして「日本人には理解できない」と言うのも乱暴な話なんですけどね。

以下、前回の投稿で書いた内容と矛盾するじゃないか、との批判を承知で書きます。よく耳にする「フィリピン人は約束/時間を守らない」「借金を返さない」「自分に甘い」といった、フィリピン人のネガティブなメンタリティの本質的な原因は、カトリックの教義に由来するだけの、単純な話ではなさそうです。

どちらかと言うと、カトリックにおける「許し」は、原因よりも言い訳に使われている気がします。実際はもっともっと根の深い問題で、300年に及ぶスペインから搾取や、その後の日本とアメリカの戦争に翻弄された歴史、マルコス一族によって20年間も奪われた言論の自由など、自分の意思とは無関係に、運命を他人に決められ続けたことへの諦めが、一種の国民性として根付いてしまった。

なので少々頑張っても、結局思った通りにはならなくて、貧乏からも抜け出せない。生きるためには、法に触れることも仕方ないし、少しぐらい不義理なことをしても、神さまは許してくださる...。

なんだか書いていて切なくなってきました。私の知る限りでは、ちゃんと教育を受けた人たち、つまり経済的に余裕のある家庭に育った人は、そんな風には考えない人が多いと感じます。親の世代も自分も、それ相応に努力が報われてきた、成功体験があるからなんでしょうね。この話も結局のところ、突き詰めてしまえば、歴史と貧困問題に行き当たる。

考えようによっては、どうにも自尊心を保てない人々にとって、神の許しが自暴自棄にならずに済む、唯一にして最後の支え。そうでなければ、日本以上に自殺者を生み出す社会になっていたのかも知れません。

フィリピン社会には、そんな自己憐憫のような許しがある反面、遥かに崇高な許しもあります。中でも私たち日本人が忘れてはならないのが、キリノ大統領による日本人戦犯への許し。


第6代フィリピン共和国大統領
エルピディオ・キリノ Elpidio Rivera Quirino
出典:Lahing Pinoy

第二次大戦後の1953年、当時のフィリピン大統領キリノ氏が、日本からの助命嘆願の中、国内のモンテンルパにBC戦犯として収監されていた、元日本軍兵士105名に恩赦を与えました。キリノ大統領は、戦時中のマニラ市街戦で、奥さんと二人の幼い子供を日本兵に殺害された過去を持つ人。(詳しくは、まにら新聞の記事をご覧ください。)

その背景には、政治的な思惑が皆無だった訳ではないでしょうけれど、私は「主の祈り」の一節「我らが人を許す如く、我らの罪をも許し給え」こそが、決定的な影響力を持っていたと思います。それにしても、これは苦渋の末の決断だったでしょう。生半可なカトリック信徒である私には、とても真似ができない。

戦勝国が敗戦国のリーダーや兵士たちの罪状を、「人道に対する罪」として裁いたことは、茶番に過ぎないし、非戦闘員である女性や子供まで焼き殺した、アメリカを含む連合国側に裁く資格があったとは到底思えません。しかし、日米の戦いに巻き込まれたフィリピン市民には、そんなことは無関係に、当時の日本と日本人の存在自体が憎しみの対象だったことでしょう。それを考えるとキリノ大統領の行為は、最初に書いたのとはまったく違う意味で、理解の範囲を超えています。もうこれは神の領域。

それにしても、キリノ大統領については、これだけネットに情報が溢れているのに、現在日本での知名度は高いとは言えません。そして日本国内で顕彰の碑が建立されたのが、なんと昨年(2016年)6月。恩赦から60年以上も経過しています。

苦渋の許しを行ったキリノ大統領が、後世での栄誉を期待したはずはないと分かっていても、この忘却ぶりは、日本人としては寂しい限り。フィリピン人の許しの精神は、決して自分にだけ向けられるわけのではなく、他者である私たち日本人も、その恩恵に浴しているのです。


2017年7月7日金曜日

レイテ地震


レイテ島での地震被害
出典:ABS-CBN News

最近、本当に多いんですよ、フィリピンでの地震。
昨日(2017年7月6日)の午後4時、フィリピン中部ビサヤ地方、レイテ島付近を震源とする、マグニチュード6.5の地震が発生しました。最大震度は5。この投稿を書いている7月7日の午前中時点で、確認された死者は2名。100名を超える負傷者が病院に搬送されたとのことです。

今年の2月にも、南部ミンダナオ島のスリガオで、死者6名を出す地震があったばかり。地震大国と呼ぶべき日本に比べると、その頻度や強さは大したことないレベルなんでしょうけど、元来、地震に慣れていないフィリピンの人々。建築物の脆弱性もあって、震度4〜5程度の揺れでも、たちまちパニックが起こってしまいます。

私たちの住むネグロス島のシライ市は、震源地のレイテ島から西に約200kmの距離。2012年に起こったネグロス沖地震(地滑りなどで死者40名以上)や、2013年のボホール島の地震(隣島セブも含め、約200名の死者)、それに上記のスリガオの地震の震源を地図にプロットしてみると、思ったより狭い地域に集中しているのが分かります。ざっくり言うと、東京〜大阪間400kmに収まるぐらいの広さ。


専門家ではない私には、詳しいことは分からないにしても、このビサヤ地方の地底や海底で、何事かが起こっているのかと心配になってきます。

地震発生の時刻には、私はシライ市内の自宅2階でパソコン作業中で。最初はめまいかと思ったほど、周期の長い僅かな揺れ。震度1程度だったでしょうか。階下にいたメイドのネルジーに、今の揺れに気がついた?と尋ねたら、やっぱり地震。大阪に暮らしていた頃の経験からすると、長野ぐらいの距離で、そこそこ大きな地震があった時のような揺れ方でした。

日本と違って、すぐに地震速報がテレビやネットで発表されるわけではなく、かなりな規模の地震でも、第一報が伝わるまでは時間がかかります。マニラ首都圏からも距離がある場合は、特にそうなる傾向。

この時間には、息子はまだ小学校。いつものようにネルジーがお迎えに行くと、先生の指示で、生徒全員が校舎の外に避難していました。やっぱり建物の倒壊を心配したんでしょうね。この程度の揺れで、何て大げさなとも思う反面、こちらの人たちの建築物への信頼の低さを考えると、そういう反応も仕方がないのかも知れません。

いつもより30分ほど遅く帰宅した息子から、地震発生時の状況を聞きました。揺れの後しばらく全校生徒は、校庭で待機。用務員の人や上級生が手分けして、校舎内のカバンや荷物を持ち出してくれるのを待っていたそうです。

結局、その日の授業はそこで打ち切りになり、翌日の今日は校舎の点検のために臨時休校になりました。フィリピンでも、そこまで神経質になる場合もあるんですね。ちなみに隣接する公立小学校は、通常通りとのこと。

フィリピンでこのような災害があると、いつも思うし、このブログでも繰り返し書いているのは、それを教訓に何らかの対策を打とうという意識が、この国では本当に希薄なこと。毎年あれだけひどい目に合っている、台風や洪水にしたところで、被害を減らすように建築基準を厳しくするでもなく、災害に強い街づくりをしようなんて、掛け声が上がっても、誰も本気で取り組まない。

日本と同じか、ひょっとするとそれ以上に、台風・地震・火山などによる自然災害が頻発するフィリピン。それなのに、社会として災害に慣れているとは、とても言えません。ここでは、ただの居候外国人にすぎない私には、それに口を挟む権利はないけれど、やっぱり何とも言えない無力感を覚えますね。


2017年7月5日水曜日

これがフィリピン・カトリック


「私たちの罪をお許しください。私たちも人を許します。」

これは、フィリピン人の80パーセントを占めるカトリックを含む、多くのキリスト教徒が、日曜日のミサ・礼拝、または日々の生活の中で唱える「主の祈り」の一節です。全文は少々長くなりますので、ご興味のある方は、この投稿の最後をご覧ください。

20年前に、ここフィリピン・ネグロス島で洗礼を受けて、カトリック信徒になった私。その後の16年間は日本で暮らし、日本のカトリック教会に通いました。そして4年前のフィリピンへの移住。自身が洗礼を受け、カトリックが大多数の地に家族で引っ越し。

カトリックだけでなく、プロテスタントや正教を全部引っくるめても、人口の1〜2パーセントしかクリスチャンがいない日本。そこから、アジア最大のカトリック国に移り住んだのですから、さぞ居心地がいいだろうと思われるかも知れません。

もちろん、そういう側面も大いにあるのですが、意外にも戸惑うことも多かった。日本の場合、人口構成比でも分かるように、クリスチャンは少数派もいいところ。そのせいか、良くも悪くも自分の信仰に対して、意識が過剰になる傾向があるように思います。これは30過ぎてから入信した私だから、余計にそう感じるのかも知れません。

日本で、キリストについて、神について語る...なんて言うと、信徒でない人はまず一歩も二歩も引いてしまうでしょう。ヘタするとタチの悪い勧誘かと思われて、友達を無くすことにもなりかねない。私にも、自宅に「一緒に聖書について勉強しましょう」という電話がかかってきて、とても困惑した覚えがあります。ただ、断るのは簡単で、「聖書は新旧とも日本語と英語で何冊も持ってるし、毎週イヤでも読んでますので、結構です。」
うわっ、我ながら、なんて鼻持ちならない奴。

ところが、ここフィリピンでは、石を投げればカトリックに当たる。道に寝てるオっちゃんでさえ「God bless us」(我々に神の恵みを)と大書したTシャツを着てたり。日本で教会に通うような人は、「敬虔な」と形容されるほどではなくても、日常の行動にそれとなく控え目なところがあったりするものなのに、こちらでは、超乱暴運転のジプニー(乗り合いバス)の運ちゃんも、やたらと賄賂を要求する悪徳役人も、さらには犯罪者ですらカトリック。この落差は、一体どう受け止めたらいいものやら。

最初はそんな具合に、相当面食らったものの、しばらく時間が経つうちに、このエエ加減極まりない市井のフィリピン人こそ、実は本当に敬虔なカトリック信徒ではないかと、感じるようになりました。

私なりに思い至った、フィリピン・カトリック理解の鍵は、冒頭に記した「許し」。キリスト教は、母体となったユダヤ教が、神と契約に基づいた、極めて厳格な教義を持つことに比べ、愛と許しの教えと言えるでしょう。特にカトリックは、聖母信仰に代表されるように、祈りと慈悲を乞うことが、ほぼ同義。ミサの最初がまず「主よ、憐れみ給え」で始まるぐらい。

この世には、罪と無縁な人間はいない。生まれたての赤ちゃんですら、アダムとイブが犯した罪を、生れながらに背負っていると考えるのがカトリック。ところが、悔い改めて、神に、主キリストに、聖母マリアに、許しを乞えば、どんな大罪でも許されるんですよ。これって常識で考えたら、凄いことです。

心の中で祈るだけでなく、神父さまに罪を打ち明けるのが「告解」(こっかい)。アメリカ映画で見たことがあるかも知れません。打ち明けられた神父さまは「父と子と聖霊の御名によって」罪人を許すわけです。これは「許しの秘蹟」とも呼ばれます。そして、告解の内容は何があろうとも絶対に秘密。相手が警官であろうが、ローマ法皇であろうが、漏らしてはならない。

映画ゴッドファーザー・パート3で、アル・パチーノ演じるマファのボス、マイケル・コルレオーネが、兄フレドを殺害したことを告解し、それを受けた神父が、警察の取り調べにも口を閉ざすシーンがありましたね。

私が思うに、多くのフィリピン人は、私のような理屈で入ったカトリックと違い、悔い改めれば神さまが許してくださると、一点の曇りもなく信じているんじゃないでしょうか。特に日頃、自分の行いに後ろめたさを感じている、違法ドラッグの密売や、売春に従事する人たちほど、週に一度のミサを欠かさないと言われています。

これが当を得ているかどうか分かりませんが、私はそう考えたら、いろいろと合点がいきました。そりゃそうでしょう。教会に行って祈れば、何もかも許されてると本気で信じられたら、約束の時間を守らなくても、借りた金を返さなくても、自責の念は起こらない。(注:個人差は天地ほどあります。誰でもそうだという意味ではありません。)

実際、私が接したフィリピンの人たちは、自分に対して大甘な反面、日本人に比べれば、他人にも比較的寛容な人が多い。あんまり損得がどうのこうと騒がず、相当悪い奴でも、それ相応の罰を受けてるのを見たら、すぐに可哀想...となる。

そう言えば私も、ある親戚のことをいつまでも毛嫌いしてたら、「毎週日曜日に、私たちも人を許しますと、祈ってるでしょ」と、家内に諭されたことがあるなぁ。


フィリピンでは至る所に
イエスさまの肖像が掲げられています

最後にカトリックでの日本語「主の祈り」全文を記します。

天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を
今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。

アーメン


2017年7月3日月曜日

監視カメラと拳銃


何かにつけて、治安の悪さが強調されて日本に報道されるフィリピン。現在、戒厳令下にあるミンダナオ島のマラウィ近辺のような、本当に内戦状態にあるような場所は別にしても、治安が良好とは言えないのが、残念ながらこの国の現実です。

でもそれは、場所と時間帯で全然違うのも事実。私たちの住むネグロス島のシライで、明るい時間帯に市街地を歩いても、身の危険を感じるようなことは、まずありません。以前にも書いたように、移住して4年以上が経過して顔見知りが増えたので、目立つ日本人の私が逆に監視されているようなもの。「旦那さんが、パウンショップ(質屋)に出入りしてるのを見たわよ」なんて、家内にご注進があったりして、けっこう面倒だったりします。

しかし、夜になるとやっぱり泥棒や強盗など、犯罪が発生してしまうシライ。自宅のある、フェンスとガードマンで守られたサブディビジョン(宅地)は、シライ市内、ひょっとするとネグロス島内でも屈指の安全な場所なので、物騒な話は滅多に聞かないけれど、皆無というわけでもありません。

そういう環境なので、最近では個人の住宅に監視カメラを設置するのが、ちょっとした流行になっているようです。フィリピンではCCTV(Closed Circuit Television)と呼ばれる監視カメラ。(最初は中国中央電視台のことかと思った)マニラ首都圏では、公共の場所を含めて、かなりの数が普及しているらしく、テレビのニュースで、CCTVが偶然捉えた犯罪や交通事故など、時折ショッキングな映像が。

もう金持ちアイテムでもなくなったようで、家内の弟家族も購入しました。中の下ぐらいの所帯ながら、洗濯物を盗まれたりするような窃盗の被害があるそうです。実際にカメラを設置したからと言っても、現行犯を取り押さえようとうのではなく、わざとカメラが外から見える位置に付けて、抑止効果を狙ってるんでしょうね。

そして、一般市民が合法的に拳銃を所持できるフィリピン。違法の密造拳銃も出回ったりして、犯罪者から自分と家族の身を守るために銃を持ってる人は、想像していたよりもずっと多い。合法的と言っても、外国人には禁じられているし、基本は自宅など決まった場所に保管しないといけません。持ち歩きはさらに追加の許可証が必要。

最近、フィリピン人の奥さん名義で銃を購入したという、日本人の友達がいます。その方がガンショップで聞いた話では、そこそこ高級な車に乗っているような人は、大抵、拳銃を携帯していると思ったほうが良いとのこと。これはかなり恐ろしい。

親戚の間では、拳銃を所持していることで有名な、家内の従弟ラルフ。たまたま我が家に来ていた時に「ピストル持ってるって、本当?」と尋ねたら、「今も持ち歩いてるよ」と、いつもぶら下げている小さなカバンから、無造作に拳銃と弾丸を取り出しました。

以前は、マニラでカジノに勤めていたというラルフ。実際、危ない目に合う可能性も高かったんでしょうね。時々、州都バコロドにある射撃場で練習しているそうです。本物の拳銃を間近に見て、手に取るのは初めてではないけれど、子供もいる自分の家の居間で見ると、感じ方が全然違いますね。なんだか、すごく邪悪な物という雰囲気。

ラルフには、監視カメラも拳銃も、購入を強く勧められてしまいました。日本から移住して、平和なサブディビジョンに住んで、理屈では分かっていても、我ながら危険に対しての感度は低いのかなぁと、考え込んでしまいました。


2017年7月1日土曜日

サンの効用


気が付いたら、もう7月になっちゃいました。2017年も半分終わり。早いなぁ。

加齢と共に、月日の経過が早く感じるのは仕方ないようです。それにしてもフィリピンに移住してからは、その感覚に加速装置がセットされたようで、もう毎日がぶっ飛ぶよう。加齢だけでなく、楽しい時間が早く過ぎるのが一緒になったんでしょうか。もちろん楽しくない日もありますが、日本で会社勤めの頃に時折あった、どん底の気持ちが一切なくなったのが大きいと思います。

今日はフィリピンでの敬称について。
英語で喋っている時に用いる敬称は、Mr. Miss Mrs. Ms. (最近は体と心の性別が一致しない人のために、Mx. というのがあるそうです)が基本。でも移住してからは、仕事をしているわけではないし、日常生活ではまず使うことがありません。

Sir や Ma'am は、客としてお店やレストランに行った時に、相手から言われるばかり。しかも英語が母国語の人には、Ma'am は、日本語の「オバちゃん」みたいな、年齢を揶揄するニュアンスを感じる場合もあるそうで、うっかりとは使えない。

だからと言って、フィリピン人が会話の時に、立場や年齢に無頓着かというと、そんなことはない。日本人ほど神経質ではないにしても、呼び方にはそれなりの配慮があります。身近なところでは、我が家のメイドさん、ネルジーは、家内のことを「ター」Ta、と呼びます。これは伯母・叔母の敬称 ティタ Tita の短縮形で、親戚以外の年上の女性一般に対しも使用可。因みに私は ティト Tito(伯父・叔父)ではなく、なぜか サー Sir と呼ばれてます。

他には、クヤ Kuya 兄貴、アテ Ate 姉貴。血の繋がった兄弟姉妹でも使われるし、そうでなくても、親子ほどではない年齢差の人の呼称に用います。私の息子からすると、ネルジーはアテ・ネルジー。家内の従兄弟姉妹からの、私の呼び名が、クヤ・フランシス。(日本の本名は発音しにくいし、カトリック信徒で、洗礼名がフランシスコだから)

面白いのは、見ず知らずの男性に声をかけるのに、ボス Boss が、よく使われること。店の呼び込みに「そこの社長!」と言ってるようなものでしょうか。ボスの場合は、そんなに下世話でもないようで、もう少し普通の感じ。そして飲食店などで、ウェイトレスに声をかけるのは、必ず ミス Miss。年齢も未婚・既婚も関係ないようです。

とまぁ、思ったよりも細かく、相手の立場や年齢、加えて性別などで、呼び分けをしているフィリピン社会。ところが、日系の企業や、日本人が経営するオフィスや店舗、日本のNGOなどで、意外と重宝されているのが、さん付け。

まず、日本人のマネージャーが部下を呼ぶ時、呼び捨てには抵抗があるけど、細かい呼び分けも面倒、となって日本流の、さん付けを始めるんでしょう。使ってみると、トップから下っ端までオールマイティだし、男女も関係ありません。「これは便利」と、なるんだろうと思います。フィリピンだけでなく、他の東南アジア諸国やヨーロッパ、アメリカなど、私が出張したことのある日本企業の海外オフィスでは、これで呼び合っている所が多かった。

そう言えば、家内と付き合っていた頃、「ジョイさん」(ジョイは家内の名前)と呼んだら、なぜか家内も、家内の家族も大笑いしてました。これは、さん付けが可笑しいのではなく、私が思いっきり関西弁のアクセントで発音したからでした。