2017年7月24日月曜日

気温逆転の7月


昨日(2017年7月23日)は、日本では「大暑」だったんだそうですね。この大暑を含む24節気、2000年以上前の中国・春秋戦国時代に決められたもの。春分や秋分は分かるとしても、現代の日本の暦に当てはめると、立秋が真夏の8月初旬だったり、大雪がまだ初冬の頃の12月前半だったりで、実際の天候とのギャップが大きい。昔からテレビの天気予報で、やたらと使われてる理由がイマイチ不明。

大暑も、以前はまだ夏休みが始まったぐらいで、それほど暑くない印象だったのが、ここ最近ではちょうど最初の猛暑ピークが来る時期に重なり、妙にピッタリになってしまいました。今年も相変わらずの厳しい暑さのようで、週間予報で各地の気温を見たら、35〜32度が続く模様。

私が子供だった50〜40年前って、日本の夏はここまで暑くなかったはず。確か、どんなに気温が高くてもせいぜい33度止まりで、それも一夏に数回ぐらいしかなかったように記憶しています。いつから35度が当たり前になり、年間最高気温が40度にまでなるようになったんでしょう。40度なんてフェーン現象でもない限り、あり得なかったんですけどねぇ。

日本では暑さに喘ぐ7月、フィリピンでは本格的な雨のシーズン。日本と天候パターンが反対で、4〜5月に最も暑い季節の後、6〜8月は雨季。また上陸する台風も増え始め、これまた日本と違って、多くは東の沿岸から襲来します。

こうなると、温帯の日本と熱帯のフィリピン、特にここネグロスは、気温が完全に逆転。日差しの強さはさすがの熱帯でも、ほとんど毎日曇りがちで、午後から深夜にかけては、決まって土砂降り。元々年間を通じても、クーラーはよほど暑い日の就寝時にオフタイマーで数時間使う程度。今は朝晩、扇風機でも涼し過ぎるぐらい。おそらく最高気温は、連日30度止まりだと思います。

日本よりやや小さい程度の国土面積のフィリピン。他の島々や、マニラ首都圏がどうなのかは分かりませんが、ネグロス島の自宅にいる限り、少なくと大阪近辺に比べると、はるかに暮らしやすい気候であることは、間違いありません。そしてネグロスには、花粉も黄砂も飛んでこない!

聞くところによると、夏が異常に暑くなったのは日本だけではなく、ヨーロッパでも、以前は涼しくて、どの家にもクーラーはなかったのに、最近は堪えられなくなって、冷房設備を自宅に導入する人が増えているらしい。

このネグロスと実家の兵庫県尼崎を、単純に気温の過ごしやすさだけで比べると、11月中旬頃から翌3月ぐらいまでは、冬の寒さのないネグロスに軍配が上がり、暑くなる6月中旬から最高気温が30度以下に戻る9月末ぐらいも、ネグロスの方が凌ぎやすい。つまり、日本で居心地がいいのは、4・5・10・11月の4ヶ月程度。しかも、4〜5月のネグロスの真夏にしても、気温はせいぜい35度止まりで、朝夕はぐっと涼しくなります。

だから、みなさんネグロス島に移住しましょう...などと気安いことを言うつもりはないけれど、ある程度経済的に余裕がある退職者の方ならば、避暑にも避寒にも最適なネグロス島で、日本の気候が厳しい時だけでも長期滞在するという選択肢も、あるんじゃないかと思ってしまいます。


2017年7月21日金曜日

近くて遠いドゥマゲテ

数日前、シライ市内のDepED(フィリピン教育省)に勤務する家内が、隣州・東ネグロスの州都ドゥマゲテに、セミナーのため3泊4日の出張で出かけました。グーグルマップで調べてみると、シライから約280kmの場所。同じ島の中とは言え、これは結構な移動距離です。しかも平坦な道ではなく、中央部の山岳地帯を縦断するルートなので、バスや車しか交通手段がないネグロスでは結構大変。


所用時間は、ざっと6時間。日本に置き換えて起点を大阪とすると、西は広島、東は静岡までに相当。(地図を使って半径を調べるサイト)これは新幹線に乗って然るべき旅行ですね。新幹線はおろか、旅客鉄道そのものがないネグロス。現在鉄道が営業運転しているのは、マニラ首都圏のみのフィリピン。ドゥテルテ大統領になってから、マニラからの長距離鉄道を建設しようという動きもあるようですが、ネグロス島にそんな話がでるのは、何十年先になることやら。


電車を走らせるのはまだまだ夢だとしても、せめてこの距離ならば、小さなプロペラ機でいいから、航空便があればと思います。シライにもドゥマゲテにも、ちゃんと空港があるんだし。

マニラや隣島のセブまでは、一日数便ものフライトがあって、1時間前後で行くことができます。大使館・領事館に用事がある時は、日帰りでも大丈夫。ところが同じ島なのにドゥマゲテとなると、どうしたって1泊旅行。しかも山道を含んで片道6時間なので、疲れ方が半端ではありません。家内からも到着早々に「お尻が痛い」とメッセージが来ました。

実は私、ドゥマゲテに行ったことがないんですよ。いいところらしいですね。ウィキペディアによると、人口は約10万人。シライよりもまだ規模が小さいけれど、シリマン大学を始め大学がたくさんあって、風光明媚な学園都市として知られています。しかも、ビーチリゾートや、ホエールウォッチングを楽しめる場所へ行くのも便利。日本人を含む、海外からの留学生も多いそうです。

ネグロス島に移住して4年。こんなに不便じゃなければ、毎年でも夏休みには行きたいぐらい。どうも東西ネグロスの往来がこんな状態なのは、単に地理的な問題だけではなく、ひょっとして文化的な背景があるんじゃないかというのが、私の見方。

つい最近、東西ネグロス州が一つにまとまって「ネグロス・リージョン(地方)」が発足しましたが、それ以前は、シライのある西ネグロス州は西ビサヤ地方に、ドゥマゲテのある東ネグロスは中央ビサヤ地方と、別々の行政区分でした。

なぜかというと、西の言葉はイロンゴ語で、東はセブアーノ語。ネグロスの東西はマンダラガンやカンラオンの高い山並みに隔てられて、昔から人の行き来が少なかったと推測されます。それより海峡を渡った方が交易は簡単なので、西はパナイ島のイロイロ、東はセブとの結びつきが強くなったのも理解できる。

もちろん今では人の交流はあるけれど、どうも地元の人にはイマイチしっくりこないことあるらしい。家内に言わせれば、セブアーノ語は響きが硬く、田舎っぽく聴こえるんだとか。学生時代に愛の告白されたけど、それがセブアーノだったという理由で相手にしなかったんだそうです。

確かにイロンゴ語の方が優しい感じがして、特に女性が喋ると得も言われぬ愛嬌が。でも外国人には、目くそ鼻くそを笑うの類で、どっちもマニラっ子からすれば「ビサヤの田舎もん」で一括り。

それはともかく、フィリピン国内には行きたいけれどまだ行ってない場所が、山のようにある私。そろそろ何かしらの理由を作って、まずは近場から、私の中のフィリピン白地図を埋めていきたいと考えています。


2017年7月19日水曜日

私的フィリピン美女図鑑 マイティ・フィリピーナ


前回の王女カンシライに続いて、2本目の美女イラストです。この企画(?)、有難いことに、何人かの方から好評を頂いております。調子に乗って、今回はちょいセクシー路線。

今日のタイトルは、「マイティ・フィリピーナ」。フィリピンでは、アメリカンコミックのヒーロー映画が大好きな人多いらしく、街を歩いていてもスーパーマンやスパイダーマンのTシャツ着ているのを、とてもよく見かけます。

特に最近では、ワンダーウーマンが人気のようで、ネットや雑誌で、ワンダーウーマンのコスプレしたモデルの写真がちらほら。やっぱりこの国では、元々女性の地位が高く強いからでしょうか。強くてしかも魅力的というのが、とってもウケる。フェミニズムと、セクシーさを強調することが、何の矛盾も確執もなしに両立している印象。


そんな訳で、フィリピン版ワンダーウーマンをイメージしてイラストを描いてみました。ビジュアル的には、ワンダーウーマンより、キャプテン・アメリカの女性版と言うべきか。フィリピン国旗をモチーフにしたコスチュームに身を包んだ、強ぉ〜いフィリピーナ。描いてみたら、ヒーローではなくて、女子プロレスの選手みたい。

赤と青の配色と星の構成要素が似ていので、星条旗のイメージになるんですよ。アメリカナイズされたカルチャーが、ずいぶん浸透しているフィリピン。グラフィックデザインのセンスが、何となくアジア離れしているのは、こういうことも原因かなとも思ったり。

背景にしたのは、黄昏時のマニラ首都圏・マカティ市に林立する高層ビルと、ボクシングジム。フィリピンって、男女を問わずジム通いする人が多い。ボクシング大国のフィリピンだけあって、筋トレだけではなく、ボクシングやテコンドーのジムも併設。女性でもキックボクシングしたりする人が、意外に多かったりします。

ヒーロー映画の本場アメリカだと、悪と戦い正義と平和を守るのは、やっぱり筋骨隆々のマッチョガイ。女性を主人公にした物語もないわけではないけれど、ワンダーウーマン以外で思い浮かぶのは、バイオニックジェミーぐらい(古ぅ)。他は仇役だったり、男性ヒーローのサポートだったり。探せばあるといっても、まだまだメジャーとは言い難い。最近のバイオハザードとかイーオン・フラックスは、明らかに日本の影響で、攻殻機動隊に登場する「少佐」こと素子(もとこ)がオリジナルでしょう。

でも、フィリピンを舞台としたヒーロー映画を作るんだったら、私は女性が主役の方が似合う気がします。フィリピン男性には気の毒ながら、この国の男が、力づくで問題を解決しようとすると、だいたいロクなことにならない。

イラストの巧拙はともかく、いくらフィリピン女性と結婚しでも、日本にいた時には、フィリピンを絵にするのに、こういうモチーフは選ばなかったかも知れません。実際に住んでみて初めて実感できることも、たくさんあるものですね。


2017年7月17日月曜日

筒抜けゴシップ


ここネグロス島では、朝も昼も夕方も、オっちゃんやオバちゃんが道端にタムロして、何やら楽しそうにお喋りしているのをよく見かけます。奥さん連中が、家事の合間に...というようなレベルではなく、数時間から半日も同じ場所にいる人も。そんなに長い事、よく喋ることがあるなぁ。

家内によると、別に大したこと話してないし、ほとんどは隣近所や知り合いのゴシップなんだとか。井戸端会議での噂話は、フィリピン人に限らず日本でも好きな人は好きだし、有る事無い事、特に誰かの浮気やら色恋沙汰は、あっと言う間に拡がりますね。

ただフィリピンの場合、メイドさんや運転手など、家族以外の使用人が身近にいるせいか、一次情報の精度が変に高くて、単なる憶測ではない話が、簡単に家の外に漏れたりします。また、ネグロスのような田舎では、近所付き合いが濃厚で、取り立てて詮索しなくても、お隣さんのプライバシーが垣間見えてしまうことも。

そう言えば、我が家のメイド、ネルジー。たまにサリサリ・ストア(町内に必ず一つはある、小さな雑貨屋さん)へお使いを頼むと、店番の女性にいろいろと根掘り葉掘り訊かれるんだそうです。いつも「インタビューされました」と笑いながら報告。

こういうのは罪が無くていいけれど、1ブロックほど離れたお金持ちの家は、メイドやガードマンが見聞きしたことが、その隣家に住む、家内の友達ナンシーに伝わって、そこから向かいの婆ちゃんや、角の未亡人など、あっと言う間にサブディビジョン(宅地)中に。

年老いた母親と息子の仲が悪くて、息子の方が「早く死んだらいいのに」と怒鳴ったとか、メイドさんにロクに食事もさせないから、すぐに辞めちゃうとか。この間などは、私の息子と同級生の娘さんが、テストで15点(100点満点で)しか取れなかった、なんて話まで。

他所事だからと。無邪気に面白がってもいられません。まだまだシライ市内では数人しかいない日本人。下手なことをすれば、情け容赦なしにゴシップネタにされるのは目に見えています。もう20年以上も昔、日本から出張してきた私にフィリピンを紹介してくれた、師匠のような存在だった、マニラ駐在の先輩社員。メイド〜運転手経由で、夫婦喧嘩したことまで、翌朝にはオフィスのローカルスタッフ全員に知れ渡っていました。

これでは夜遊びもできないと、その手の場所に行く時は、自動車運転禁止の社内規を破って、自分でハンドルを握ったそうです。(今になると、それでもバレてたんじゃないかと思いますが)

そんな悪い噂を流されないためには、まず軽はずみなことをしないのが一番。さらには、周囲に愛想よくして、メイドさんはもちろん、サリサリストアのおばちゃんにも、隣の空き地で水牛を放牧してる牛飼いのオっちゃんにも、会えばちゃんと挨拶して、世間話の一つでもすることが大事。まぁ、これはフィリピンだけで通用することでもないですね。


2017年7月15日土曜日

群れる日本人


日本を離れて4年余り。たまに一時帰国したり、日本からの来客時は別とすれば、この4年間、日常生活で日本人と顔を合わせたり、まとまった日本語の会話をすることなく生活してきました。息子は日本国籍があるので間違いなく日本人。日本語も忘れてはいないけれど、まだ12才だし、父と息子ということもあって、そんなにしょっちゅう喋るわけでもありません。

だからと言って、それが苦痛とは感じないし、ネット経由での日本語コミュニケーションは、このブログを始めとして、フェイスブックにツィッターで十分。日本の家族から時々メールも来ます。むしろ私には程よい距離感で、疎ましくなったらスマホやパソコンを見なければいいだけ。場合によってはブロックという手段もある。

そんな環境に身を置いて、日本や日本人全般を外から眺めて考えるに、どうも日本人というのは、組織を運営していくのが致命的に下手クソなんじゃないかと思えてきました。

特にそれを顕著に感じるのが、非営利団体。具体的には、隣近所やマンションなどの自治会、PTA。私がかつて所属していた、カトリック教会の信徒会とか、アマチュアコーラスグループなんてのも。もっと自然発生的なママ友の集まり等も、入るかもしれません。

同好の士や、偶然知り合った気が合う者同士が、数人集まってるうちは平和なのに、5人10人となり、リーダーを決めたり、責任を分担をするようなレベルになると、なぜか強烈な同調圧力が生じます。最近の言い方だと「空気を読む・読まない」というヤツ。別に誰がルールを決めたわけでなくても、グループ内だけで通用する、変なタブーができてしまう。

これが勤め先だったら、それも給料分と諦めて、多少の居心地の悪さも我慢するのも、分からないではありません。しかしながら当然限度もあって、自分で自分を精神的に追い込んでしまうのはやり過ぎ。最近の日本でようやく問題視するようになった、過重労動や過労死は、そんなところに原因があるのは、経験的に間違いないと思います。

ところが仕事と違って、そこから離れても、ただちに生活に困るという事情はないはずなのに、仲間はずれにされたり、グループから除外されたらもう生きていけない、みたいな錯覚を起こす人が、どうも日本人には少なくないようです。

そして海外に住むと、一度は耳にするのが「日本人会」。数十人から百人以上の日本人が同じ地域に住む場所には、たいていあるみたいですね。国によっては、生活そのものに危険があって、互助組織を作らないと暮らしていけないケースもあるかも知れません。日本人でなくても、チャイナタウンやコリアンタウンのように、同じ民族が集まって住むエリアができるのは、それほど珍しくはない。

ただ、私が知る限りでは、日本人が海外でこの手の組織を作ると、まったく合理性のないヒエラルキーができてしまうようです。分かりやすい例だと、一番エラいのが、大使館・領事館などの日本政府関係者で、次が商社や金融機関勤務者、その下がメーカー勤めになり、さらに下が現地雇用の日本人。私のような無職の移住者は、埒外ということに。

少し前のことながら、私がご本人から直接聞いた話。マニラ首都圏に住む日本人の女性が集まって、地元のお客さんに集まってもらう機会に、コーラスを披露しようとなった時のこと。日本人を代表しての発表なので、恥ずかしい歌は聴かせられないと、音程が外れる人や、事情があって時間通りに集まれない人を、みんなで糾弾するような雰囲気になってしまったんだとか。私にその話をしてくれた人は、慣れないフィリピン暮らしも相まって、とうとう鬱病に。

本来、娯楽や息抜きのための集まりであっても、人数が増えるとお互いが行動を監視し合って、少しでもそこから外れる人を「グループの趣旨にそぐわない」「他のメンバーの迷惑になる」とか言い出してしまう。これってスポーツをナントカ道と呼んで、精神修養の場にしないと気が済まない、日本人独特のメンタリティも関係している気がします。(当然ながら、例外もたくさんありますよ。)

そんな訳なので、どちらかと言うと、他人と同じことをしたくないヘソ曲がりな私は、ここネグロスにもある日本人会とは一切の接触をしていません。この会がどんな人の集まりで、どんな活動をしているのかも、まったく知らない。なので、会の良し悪しも分かりません。

もちろん、日本人の顔を見たくないのではなく、何人かのフィリピン在留邦人の方々とは、家族ぐるみのお付合いをさせてもらってます。私としては、それで十分だし、退職して海外移住までして、なぜ余計な気を使い、ストレスを溜めてまで、日本人(特に気難しい高齢者)同士で群れたがるか、さっぱり理解できません。


2017年7月13日木曜日

私的フィリピン美女図鑑 王女カンシライ

かなり唐突な感じがするかも知れませんが、私はイラストを描くのが趣味。元々、美術系の大学を出て、デザイナーとして28年間仕事をしてきました。プロのイラストレーターではないのですが、デザイン業務で覚えたパソコンのソフトを使い、ずっと趣味として続けてきた次第。

多分コンピュターではなく手描きだったら、完全にギブアップしてしまったことでしょう。画材は高いし、面倒で手の汚れる作業は、50歳を過ぎた今ではとても無理。第一根気が続きません。

昔はかなり大掛かりなシステムでないと、稼動できなかったような描画アプリも、今では普通に市販されているパソコンで、自由自在に操作可能。しかも、年々複雑なことができるようになり、30年前に比べれば、表現能力は驚くべきレベルに到達しています。

そういう訳でフィリピン移住後も、早期退職生活の暇に飽かせて、何枚もイラストを描いてきました。製作環境は、日本でもフィリピンでもまったく同じ。画像素材はネットでいくらでも探せるし、本当に便利な世の中になったものです。

とは言え、せっかくフィリピンに住んでいるので、できるだけフィリピンや熱帯地方に所縁のあるモチーフを選んでいます。


最初の頃に描いた、近所にある古い建物
今でも現役の商業建築でコンビニが入居してます。



熱帯魚





アオウミガメ



オウムとビーチ

ここ最近は、やっぱり人物、特にフィリピン女性をモデルにしたイラストを好んで描いてます。そこで選んだのが、ネグロス島の伝説に登場する王女カンシライ。以前にもこのブログで投稿しましたね。王女の名前は、私たちの住むシライ市の名前の由来になったとも言われています。

スペイン侵略のはるか昔、すでに交易で栄えていたネグロスに、カンシライという王女がいました。勇敢にもこの王女さま、島民を率いて自ら短剣を振い海賊と戦ったそうです。やっとのことで勝利を得て海賊を追い払ったものの、傷を受けて命を落としたカンシライ。手厚く葬られた彼女の墓から、一本の樹木が育ちました。それがカンシライの木。今でも、シライ市の木とされています。

これは伝説で、王女カンシライが実在したかどうかは、定かではありません。ですが私は、この物語にたいへん感銘を受けて、彼女をイメージしてイラストを描いてみました。背景の家屋は、100年前に建てられて、現在シライ市によって維持運営されている博物館。その他のモチーフは、ネグロス島で見られる鳥や植物で構成しました。


別に当時の装束などを再現したわけではないし、カンシライがどんな顔をしていたかなんて、誰も知らないので、私の想像で好きなように描いただけ。でも、イメージを膨らませて一枚のイラストにするという作業は、やっぱり楽しい。

そんな訳で、フィリピーナをモデルにしたイラストを、今後も描いて、「私的フィリピン美女図鑑」と称して、時々このブログに投稿することにしました。下手な素人の趣味に付き合わせて申し訳ありません。


2017年7月12日水曜日

裏庭の三角関係

今日は、約2ヶ月前に投稿した、我が家の裏庭にやってくる猫の話の続編です。天井裏で騒ぐネズミ対策で、餌付けした猫。お陰でネズミはいなくなり、最近では裏庭で過ごす時間も長くなりました。ガレージに停めた車の下で、よく昼寝してます。


もう半野良から3/4野良ぐらいまでにはなったでしょうか。以前に飼っていた猫の名前が、チャコだったので、その後継者としてチャコⅡ(ツー)と呼んでいます。このチャコⅡ、餌の時間にはずうずうしく窓辺に来るくせに、いまだに近づくと「シャー」と全身警戒感丸出しで威嚇。誰が食わしてくれてるのか、まったく理解していません。

ところが、全然可愛くないチャコⅡには、不似合いな美人のパートナーがいるようです。夜だけ姿を見せる、キジトラの雌猫。最初はチャコⅡと一緒に餌を食べに来ました。この子は、とても愛想の良くて、たまに一匹で少し早く来ては「みゃ〜」と催促します。近づいても逃げないので、まるで元から我が家の飼い猫みたい。


名前はチャコⅢ(スリー)にしようかと思いましたが、言いにくいので、3を日本語で「み」と読んで、ちゃこみ。女の子なので「チャコ美」としました。

こんな具合に、チャコⅡとチャコ美のカップルが、裏庭で平和に暮らすのか...と思ってたら、そこに第三の猫が現れました。チャコⅡより一回りは大きい茶トラの雄猫。夜になると、裏庭で猫同士がエラい鳴き声で喧嘩してるのが聞こえるのは、こいつだったんでしょうか。


チャコⅡは右後ろ足が不自由で、尻尾もつけ根から無くなってのに対して、この茶トラは健康そのもの。歩き方も堂々としていて、見るからにちっちゃな虎。ここ何日かは、こいつが餌を独占している模様。

順番から言うとチャコ4(フォー)になるけれど、これまた言いにくいので、ちょっと捻って「チェコフ」にしました。ロシア人みたいな名前ですが、私たち家族は揃って「スタートレック」のファン。チェコフというのは、スタートレックに登場する宇宙船エンタープライズの操舵手なんですよ。ちなみにチャコは、同じシリーズの宇宙船ボイジャーの副長、チャコティーからもらいました。

さて、このチェコフ。日に日に態度がデカくなってきてるなぁと思ったら、今日はとうとうチャコ美と連れ立って餌を食べにきました。うわ、チャコⅡ、彼女を取られちゃった。

三匹同時には決して姿を見せない、チャコⅡ、チャコ美、チェコフ。どういう関係になっているのかは、実のところよく分かりません。餌付けの目的がネズミ除けなので、三角関係でも何でも、猫の数が増えるのは問題なし。うまくいけば繁殖して仔猫誕生となれば、さらによし。そう言えば、心なしかチャコ美のお腹が大きくなったように見えます。父親はどっちだ?


2017年7月9日日曜日

フィリピン許しの精神 「キリノ大統領の決断」

先週投稿した「これがフィリピン・カトリック」で、フィリピン人のメンタリティに、カトリックの教義が与えたであろう影響を、自分なりの視点でまとめました。私としては、表面的にはエエ加減に見える一部のフィリピンの人々が、実はカトリックの教えに忠実なのではないかと、少々の皮肉とフィリピンへの愛情を込めたつもりの執筆内容。

ところが私の筆力が及ばず、「だからフィリピン人やカトリック社会は、日本人には理解できない」なんて、当方の意図とはずいぶん外れたコメントも頂戴してしまいました。そもそも1億人以上もいるフィリピン人や、12億7千万人もいるカトリック信徒を一括りにして「日本人には理解できない」と言うのも乱暴な話なんですけどね。

以下、前回の投稿で書いた内容と矛盾するじゃないか、との批判を承知で書きます。よく耳にする「フィリピン人は約束/時間を守らない」「借金を返さない」「自分に甘い」といった、フィリピン人のネガティブなメンタリティの本質的な原因は、カトリックの教義に由来するだけの、単純な話ではなさそうです。

どちらかと言うと、カトリックにおける「許し」は、原因よりも言い訳に使われている気がします。実際はもっともっと根の深い問題で、300年に及ぶスペインから搾取や、その後の日本とアメリカの戦争に翻弄された歴史、マルコス一族によって20年間も奪われた言論の自由など、自分の意思とは無関係に、運命を他人に決められ続けたことへの諦めが、一種の国民性として根付いてしまった。

なので少々頑張っても、結局思った通りにはならなくて、貧乏からも抜け出せない。生きるためには、法に触れることも仕方ないし、少しぐらい不義理なことをしても、神さまは許してくださる...。

なんだか書いていて切なくなってきました。私の知る限りでは、ちゃんと教育を受けた人たち、つまり経済的に余裕のある家庭に育った人は、そんな風には考えない人が多いと感じます。親の世代も自分も、それ相応に努力が報われてきた、成功体験があるからなんでしょうね。この話も結局のところ、突き詰めてしまえば、歴史と貧困問題に行き当たる。

考えようによっては、どうにも自尊心を保てない人々にとって、神の許しが自暴自棄にならずに済む、唯一にして最後の支え。そうでなければ、日本以上に自殺者を生み出す社会になっていたのかも知れません。

フィリピン社会には、そんな自己憐憫のような許しがある反面、遥かに崇高な許しもあります。中でも私たち日本人が忘れてはならないのが、キリノ大統領による日本人戦犯への許し。


第6代フィリピン共和国大統領
エルピディオ・キリノ Elpidio Rivera Quirino
出典:Lahing Pinoy

第二次大戦後の1953年、当時のフィリピン大統領キリノ氏が、日本からの助命嘆願の中、国内のモンテンルパにBC戦犯として収監されていた、元日本軍兵士105名に恩赦を与えました。キリノ大統領は、戦時中のマニラ市街戦で、奥さんと二人の幼い子供を日本兵に殺害された過去を持つ人。(詳しくは、まにら新聞の記事をご覧ください。)

その背景には、政治的な思惑が皆無だった訳ではないでしょうけれど、私は「主の祈り」の一節「我らが人を許す如く、我らの罪をも許し給え」こそが、決定的な影響力を持っていたと思います。それにしても、これは苦渋の末の決断だったでしょう。生半可なカトリック信徒である私には、とても真似ができない。

戦勝国が敗戦国のリーダーや兵士たちの罪状を、「人道に対する罪」として裁いたことは、茶番に過ぎないし、非戦闘員である女性や子供まで焼き殺した、アメリカを含む連合国側に裁く資格があったとは到底思えません。しかし、日米の戦いに巻き込まれたフィリピン市民には、そんなことは無関係に、当時の日本と日本人の存在自体が憎しみの対象だったことでしょう。それを考えるとキリノ大統領の行為は、最初に書いたのとはまったく違う意味で、理解の範囲を超えています。もうこれは神の領域。

それにしても、キリノ大統領については、これだけネットに情報が溢れているのに、現在日本での知名度は高いとは言えません。そして日本国内で顕彰の碑が建立されたのが、なんと昨年(2016年)6月。恩赦から60年以上も経過しています。

苦渋の許しを行ったキリノ大統領が、後世での栄誉を期待したはずはないと分かっていても、この忘却ぶりは、日本人としては寂しい限り。フィリピン人の許しの精神は、決して自分にだけ向けられるわけのではなく、他者である私たち日本人も、その恩恵に浴しているのです。


2017年7月7日金曜日

レイテ地震


レイテ島での地震被害
出典:ABS-CBN News

最近、本当に多いんですよ、フィリピンでの地震。
昨日(2017年7月6日)の午後4時、フィリピン中部ビサヤ地方、レイテ島付近を震源とする、マグニチュード6.5の地震が発生しました。最大震度は5。この投稿を書いている7月7日の午前中時点で、確認された死者は2名。100名を超える負傷者が病院に搬送されたとのことです。

今年の2月にも、南部ミンダナオ島のスリガオで、死者6名を出す地震があったばかり。地震大国と呼ぶべき日本に比べると、その頻度や強さは大したことないレベルなんでしょうけど、元来、地震に慣れていないフィリピンの人々。建築物の脆弱性もあって、震度4〜5程度の揺れでも、たちまちパニックが起こってしまいます。

私たちの住むネグロス島のシライ市は、震源地のレイテ島から西に約200kmの距離。2012年に起こったネグロス沖地震(地滑りなどで死者40名以上)や、2013年のボホール島の地震(隣島セブも含め、約200名の死者)、それに上記のスリガオの地震の震源を地図にプロットしてみると、思ったより狭い地域に集中しているのが分かります。ざっくり言うと、東京〜大阪間400kmに収まるぐらいの広さ。


専門家ではない私には、詳しいことは分からないにしても、このビサヤ地方の地底や海底で、何事かが起こっているのかと心配になってきます。

地震発生の時刻には、私はシライ市内の自宅2階でパソコン作業中で。最初はめまいかと思ったほど、周期の長い僅かな揺れ。震度1程度だったでしょうか。階下にいたメイドのネルジーに、今の揺れに気がついた?と尋ねたら、やっぱり地震。大阪に暮らしていた頃の経験からすると、長野ぐらいの距離で、そこそこ大きな地震があった時のような揺れ方でした。

日本と違って、すぐに地震速報がテレビやネットで発表されるわけではなく、かなりな規模の地震でも、第一報が伝わるまでは時間がかかります。マニラ首都圏からも距離がある場合は、特にそうなる傾向。

この時間には、息子はまだ小学校。いつものようにネルジーがお迎えに行くと、先生の指示で、生徒全員が校舎の外に避難していました。やっぱり建物の倒壊を心配したんでしょうね。この程度の揺れで、何て大げさなとも思う反面、こちらの人たちの建築物への信頼の低さを考えると、そういう反応も仕方がないのかも知れません。

いつもより30分ほど遅く帰宅した息子から、地震発生時の状況を聞きました。揺れの後しばらく全校生徒は、校庭で待機。用務員の人や上級生が手分けして、校舎内のカバンや荷物を持ち出してくれるのを待っていたそうです。

結局、その日の授業はそこで打ち切りになり、翌日の今日は校舎の点検のために臨時休校になりました。フィリピンでも、そこまで神経質になる場合もあるんですね。ちなみに隣接する公立小学校は、通常通りとのこと。

フィリピンでこのような災害があると、いつも思うし、このブログでも繰り返し書いているのは、それを教訓に何らかの対策を打とうという意識が、この国では本当に希薄なこと。毎年あれだけひどい目に合っている、台風や洪水にしたところで、被害を減らすように建築基準を厳しくするでもなく、災害に強い街づくりをしようなんて、掛け声が上がっても、誰も本気で取り組まない。

日本と同じか、ひょっとするとそれ以上に、台風・地震・火山などによる自然災害が頻発するフィリピン。それなのに、社会として災害に慣れているとは、とても言えません。ここでは、ただの居候外国人にすぎない私には、それに口を挟む権利はないけれど、やっぱり何とも言えない無力感を覚えますね。


2017年7月5日水曜日

これがフィリピン・カトリック


「私たちの罪をお許しください。私たちも人を許します。」

これは、フィリピン人の80パーセントを占めるカトリックを含む、多くのキリスト教徒が、日曜日のミサ・礼拝、または日々の生活の中で唱える「主の祈り」の一節です。全文は少々長くなりますので、ご興味のある方は、この投稿の最後をご覧ください。

20年前に、ここフィリピン・ネグロス島で洗礼を受けて、カトリック信徒になった私。その後の16年間は日本で暮らし、日本のカトリック教会に通いました。そして4年前のフィリピンへの移住。自身が洗礼を受け、カトリックが大多数の地に家族で引っ越し。

カトリックだけでなく、プロテスタントや正教を全部引っくるめても、人口の1〜2パーセントしかクリスチャンがいない日本。そこから、アジア最大のカトリック国に移り住んだのですから、さぞ居心地がいいだろうと思われるかも知れません。

もちろん、そういう側面も大いにあるのですが、意外にも戸惑うことも多かった。日本の場合、人口構成比でも分かるように、クリスチャンは少数派もいいところ。そのせいか、良くも悪くも自分の信仰に対して、意識が過剰になる傾向があるように思います。これは30過ぎてから入信した私だから、余計にそう感じるのかも知れません。

日本で、キリストについて、神について語る...なんて言うと、信徒でない人はまず一歩も二歩も引いてしまうでしょう。ヘタするとタチの悪い勧誘かと思われて、友達を無くすことにもなりかねない。私にも、自宅に「一緒に聖書について勉強しましょう」という電話がかかってきて、とても困惑した覚えがあります。ただ、断るのは簡単で、「聖書は新旧とも日本語と英語で何冊も持ってるし、毎週イヤでも読んでますので、結構です。」
うわっ、我ながら、なんて鼻持ちならない奴。

ところが、ここフィリピンでは、石を投げればカトリックに当たる。道に寝てるオっちゃんでさえ「God bless us」(我々に神の恵みを)と大書したTシャツを着てたり。日本で教会に通うような人は、「敬虔な」と形容されるほどではなくても、日常の行動にそれとなく控え目なところがあったりするものなのに、こちらでは、超乱暴運転のジプニー(乗り合いバス)の運ちゃんも、やたらと賄賂を要求する悪徳役人も、さらには犯罪者ですらカトリック。この落差は、一体どう受け止めたらいいものやら。

最初はそんな具合に、相当面食らったものの、しばらく時間が経つうちに、このエエ加減極まりない市井のフィリピン人こそ、実は本当に敬虔なカトリック信徒ではないかと、感じるようになりました。

私なりに思い至った、フィリピン・カトリック理解の鍵は、冒頭に記した「許し」。キリスト教は、母体となったユダヤ教が、神と契約に基づいた、極めて厳格な教義を持つことに比べ、愛と許しの教えと言えるでしょう。特にカトリックは、聖母信仰に代表されるように、祈りと慈悲を乞うことが、ほぼ同義。ミサの最初がまず「主よ、憐れみ給え」で始まるぐらい。

この世には、罪と無縁な人間はいない。生まれたての赤ちゃんですら、アダムとイブが犯した罪を、生れながらに背負っていると考えるのがカトリック。ところが、悔い改めて、神に、主キリストに、聖母マリアに、許しを乞えば、どんな大罪でも許されるんですよ。これって常識で考えたら、凄いことです。

心の中で祈るだけでなく、神父さまに罪を打ち明けるのが「告解」(こっかい)。アメリカ映画で見たことがあるかも知れません。打ち明けられた神父さまは「父と子と聖霊の御名によって」罪人を許すわけです。これは「許しの秘蹟」とも呼ばれます。そして、告解の内容は何があろうとも絶対に秘密。相手が警官であろうが、ローマ法皇であろうが、漏らしてはならない。

映画ゴッドファーザー・パート3で、アル・パチーノ演じるマファのボス、マイケル・コルレオーネが、兄フレドを殺害したことを告解し、それを受けた神父が、警察の取り調べにも口を閉ざすシーンがありましたね。

私が思うに、多くのフィリピン人は、私のような理屈で入ったカトリックと違い、悔い改めれば神さまが許してくださると、一点の曇りもなく信じているんじゃないでしょうか。特に日頃、自分の行いに後ろめたさを感じている、違法ドラッグの密売や、売春に従事する人たちほど、週に一度のミサを欠かさないと言われています。

これが当を得ているかどうか分かりませんが、私はそう考えたら、いろいろと合点がいきました。そりゃそうでしょう。教会に行って祈れば、何もかも許されてると本気で信じられたら、約束の時間を守らなくても、借りた金を返さなくても、自責の念は起こらない。(注:個人差は天地ほどあります。誰でもそうだという意味ではありません。)

実際、私が接したフィリピンの人たちは、自分に対して大甘な反面、日本人に比べれば、他人にも比較的寛容な人が多い。あんまり損得がどうのこうと騒がず、相当悪い奴でも、それ相応の罰を受けてるのを見たら、すぐに可哀想...となる。

そう言えば私も、ある親戚のことをいつまでも毛嫌いしてたら、「毎週日曜日に、私たちも人を許しますと、祈ってるでしょ」と、家内に諭されたことがあるなぁ。


フィリピンでは至る所に
イエスさまの肖像が掲げられています

最後にカトリックでの日本語「主の祈り」全文を記します。

天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を
今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。

アーメン


2017年7月3日月曜日

監視カメラと拳銃


何かにつけて、治安の悪さが強調されて日本に報道されるフィリピン。現在、戒厳令下にあるミンダナオ島のマラウィ近辺のような、本当に内戦状態にあるような場所は別にしても、治安が良好とは言えないのが、残念ながらこの国の現実です。

でもそれは、場所と時間帯で全然違うのも事実。私たちの住むネグロス島のシライで、明るい時間帯に市街地を歩いても、身の危険を感じるようなことは、まずありません。以前にも書いたように、移住して4年以上が経過して顔見知りが増えたので、目立つ日本人の私が逆に監視されているようなもの。「旦那さんが、パウンショップ(質屋)に出入りしてるのを見たわよ」なんて、家内にご注進があったりして、けっこう面倒だったりします。

しかし、夜になるとやっぱり泥棒や強盗など、犯罪が発生してしまうシライ。自宅のある、フェンスとガードマンで守られたサブディビジョン(宅地)は、シライ市内、ひょっとするとネグロス島内でも屈指の安全な場所なので、物騒な話は滅多に聞かないけれど、皆無というわけでもありません。

そういう環境なので、最近では個人の住宅に監視カメラを設置するのが、ちょっとした流行になっているようです。フィリピンではCCTV(Closed Circuit Television)と呼ばれる監視カメラ。(最初は中国中央電視台のことかと思った)マニラ首都圏では、公共の場所を含めて、かなりの数が普及しているらしく、テレビのニュースで、CCTVが偶然捉えた犯罪や交通事故など、時折ショッキングな映像が。

もう金持ちアイテムでもなくなったようで、家内の弟家族も購入しました。中の下ぐらいの所帯ながら、洗濯物を盗まれたりするような窃盗の被害があるそうです。実際にカメラを設置したからと言っても、現行犯を取り押さえようとうのではなく、わざとカメラが外から見える位置に付けて、抑止効果を狙ってるんでしょうね。

そして、一般市民が合法的に拳銃を所持できるフィリピン。違法の密造拳銃も出回ったりして、犯罪者から自分と家族の身を守るために銃を持ってる人は、想像していたよりもずっと多い。合法的と言っても、外国人には禁じられているし、基本は自宅など決まった場所に保管しないといけません。持ち歩きはさらに追加の許可証が必要。

最近、フィリピン人の奥さん名義で銃を購入したという、日本人の友達がいます。その方がガンショップで聞いた話では、そこそこ高級な車に乗っているような人は、大抵、拳銃を携帯していると思ったほうが良いとのこと。これはかなり恐ろしい。

親戚の間では、拳銃を所持していることで有名な、家内の従弟ラルフ。たまたま我が家に来ていた時に「ピストル持ってるって、本当?」と尋ねたら、「今も持ち歩いてるよ」と、いつもぶら下げている小さなカバンから、無造作に拳銃と弾丸を取り出しました。

以前は、マニラでカジノに勤めていたというラルフ。実際、危ない目に合う可能性も高かったんでしょうね。時々、州都バコロドにある射撃場で練習しているそうです。本物の拳銃を間近に見て、手に取るのは初めてではないけれど、子供もいる自分の家の居間で見ると、感じ方が全然違いますね。なんだか、すごく邪悪な物という雰囲気。

ラルフには、監視カメラも拳銃も、購入を強く勧められてしまいました。日本から移住して、平和なサブディビジョンに住んで、理屈では分かっていても、我ながら危険に対しての感度は低いのかなぁと、考え込んでしまいました。


2017年7月1日土曜日

サンの効用


気が付いたら、もう7月になっちゃいました。2017年も半分終わり。早いなぁ。

加齢と共に、月日の経過が早く感じるのは仕方ないようです。それにしてもフィリピンに移住してからは、その感覚に加速装置がセットされたようで、もう毎日がぶっ飛ぶよう。加齢だけでなく、楽しい時間が早く過ぎるのが一緒になったんでしょうか。もちろん楽しくない日もありますが、日本で会社勤めの頃に時折あった、どん底の気持ちが一切なくなったのが大きいと思います。

今日はフィリピンでの敬称について。
英語で喋っている時に用いる敬称は、Mr. Miss Mrs. Ms. (最近は体と心の性別が一致しない人のために、Mx. というのがあるそうです)が基本。でも移住してからは、仕事をしているわけではないし、日常生活ではまず使うことがありません。

Sir や Ma'am は、客としてお店やレストランに行った時に、相手から言われるばかり。しかも英語が母国語の人には、Ma'am は、日本語の「オバちゃん」みたいな、年齢を揶揄するニュアンスを感じる場合もあるそうで、うっかりとは使えない。

だからと言って、フィリピン人が会話の時に、立場や年齢に無頓着かというと、そんなことはない。日本人ほど神経質ではないにしても、呼び方にはそれなりの配慮があります。身近なところでは、我が家のメイドさん、ネルジーは、家内のことを「ター」Ta、と呼びます。これは伯母・叔母の敬称 ティタ Tita の短縮形で、親戚以外の年上の女性一般に対しも使用可。因みに私は ティト Tito(伯父・叔父)ではなく、なぜか サー Sir と呼ばれてます。

他には、クヤ Kuya 兄貴、アテ Ate 姉貴。血の繋がった兄弟姉妹でも使われるし、そうでなくても、親子ほどではない年齢差の人の呼称に用います。私の息子からすると、ネルジーはアテ・ネルジー。家内の従兄弟姉妹からの、私の呼び名が、クヤ・フランシス。(日本の本名は発音しにくいし、カトリック信徒で、洗礼名がフランシスコだから)

面白いのは、見ず知らずの男性に声をかけるのに、ボス Boss が、よく使われること。店の呼び込みに「そこの社長!」と言ってるようなものでしょうか。ボスの場合は、そんなに下世話でもないようで、もう少し普通の感じ。そして飲食店などで、ウェイトレスに声をかけるのは、必ず ミス Miss。年齢も未婚・既婚も関係ないようです。

とまぁ、思ったよりも細かく、相手の立場や年齢、加えて性別などで、呼び分けをしているフィリピン社会。ところが、日系の企業や、日本人が経営するオフィスや店舗、日本のNGOなどで、意外と重宝されているのが、さん付け。

まず、日本人のマネージャーが部下を呼ぶ時、呼び捨てには抵抗があるけど、細かい呼び分けも面倒、となって日本流の、さん付けを始めるんでしょう。使ってみると、トップから下っ端までオールマイティだし、男女も関係ありません。「これは便利」と、なるんだろうと思います。フィリピンだけでなく、他の東南アジア諸国やヨーロッパ、アメリカなど、私が出張したことのある日本企業の海外オフィスでは、これで呼び合っている所が多かった。

そう言えば、家内と付き合っていた頃、「ジョイさん」(ジョイは家内の名前)と呼んだら、なぜか家内も、家内の家族も大笑いしてました。これは、さん付けが可笑しいのではなく、私が思いっきり関西弁のアクセントで発音したからでした。


2017年6月29日木曜日

パッキャオ・ヤヤダブ・スパゲティ

巨人・大鵬・卵焼き
この言い回しを知っている人も、だんだん少なくなってきたかも知れません。私が小さい頃のことなので、1960〜70年代頃、日本人(特に子供)が誰でも好きなもの、少なくとも積極的に嫌いではないものの代表として挙げられたのが、この三つ。

熱狂的なタイガースファンが多い、関西地方に生まれ育った私としては、多少疑問はあるものの、当時は日本シリーズ9連覇の最中だった読売ジャイアンツ。全国レベルで見れば、まぁ分からなくはありません。横綱の大鵬関もすごい人気でしたね。強いだけでなく男前。卵焼きも、私が小学生の時代には、ご馳走というほどではないけれど、お弁当アイテムとしては不動のポジション。嫌う人は少なかったろうと思います。

時は流れて、今シーズンの巨人は、まさかの13連敗だし、プロ野球全体を見渡しても、かつての長島や王のようなスーパースターは不在。イチローに代表されるような突出したプレーヤーは、みんなメジャーに。相撲も人気がないわけではないけれど、大人から子供までみんながテレビ観戦ということはない。卵焼きに至っては、今の子供たちに「一番好きな食べ物は」と尋ねても、まずその名前は挙がらないと思います。

ところが我がフィリピン。
昔の日本のようなヒーローはまだまだ健在。これは、ようやく日本の高度経済成長に追いついてきたせいなのか、いくらネットが普及しても、まだまだ娯楽が少ないからなのか、確かな理由は分かりません。でも、ほとんど誰もが好き、または大好きと答える存在が、まだかなりあるような気がします。

極端な例がドゥテルテ大統領。故アキノ上院議員以来、約30年ぶりに現れたフィリピン政治の大スター。人権問題や数々の暴言があり、就任から1年が過ぎた今でも、8割を超える支持率はすごい。

そこで私なりに、巨人・大鵬・卵焼きのフィリピン版を考えてみました。まず、スポーツではボクサーのマニー・パッキャオ。これはフィリピン人に聞いてもまず外れていないでしょう。2001年、予定していた選手の故障で急遽上がった世界戦のリングで、見事KO勝ちによりIBFスーパーバンタムを制して2階級王者になった頃から、フィリピン国内だけなく世界のボクシングファンから注目され続けてきたパッキャオ。(その後、6階級制覇)



次に、日本ではあまり知られていませんが、コメディアンヌにして最近では映画やテレビで女優として引っ張りだこの、ヤヤダブことメイン・メンドーサ。有名人のものまねから身を起こしただけあって、親しみやすいキャラクター。しかもかなりの美人。一時期は、彼女が出演する昼時のバラエティ番組に、家内もメイドさんもハマってました。

コカコーラのキャンペーンガールを始めとして、テレビを見ていると、彼女の出るCMが2〜3本も続くこともあり、日本風に言えば「好感度No.1タレント」。以前、このブログでも取り上げたことがあります。


そしてスパゲティ。特に、フィリピンで一番人気のファーストフード店、ジョリビーのメニューにあるような、極甘のトマトソースを絡めて、削ったチーズを山盛りにしたもの。バースデーパーティや、各種のお祝いには必須の献立で、大人でも好きな人はたくさんいます。



中でも絶対的な存在感は、パッキャオ。
有名になったフィリピン人ボクサーが、アメリカに本拠地を移す中、生まれ故郷のミンダナオに住み続け、大きな試合に勝てば必ず帰国して凱旋報告。どんなに成功しても、決してフィリピンの同胞を忘れないという姿勢は、ボクシングファン以外の人たちにも深い共感を呼び起こしました。

その証拠に、2012年、長年のライバルであるファン・マヌエル・マルケスに、衝撃的な6ラウンドKOを喫した際、失意のうちに帰国したパッキャオは、連勝していた頃と変わらない歓声で故郷に迎えられました。翌2013年には、WBOのウェルター王者に返り咲き。その後は、一時は引退を表明したり、上院議員に当選したりしながら、すぐに復帰。

プロデビューが1995年とのことなので、実に今年で22年目。次の日曜日(2017年7月2日)に、またまた王座を賭けた試合が予定されています。勝てばプロ通算60勝。まったく凄いキャリアです。パッキャオの試合がある時には、フィリピン中の町で交通量が減り、犯罪率も下がる。実際、私も移住してから何度か経験しいるこの現象、次回も見られるでしょうか?


奇跡のタブレット


2週間前、家内の親戚たちと一緒に楽しんだリゾート。もう思い出の1ページになりかかっていたはずが、まだ続編がありました。帰宅して数日後、同行した家内の叔母、アンティ(ニックネームが「叔母ちゃん」って。)から電話があって「私が持って行ったサムソンのiPad知らない? 家に帰ったら、見当たらないのよ」。

ん?サムソンのiPad? そんなもの最初から無いよ、と言ってしまうと、会話が終わってしまいますね。フィリピンでは、この手の言い方はよく聞きます。練り歯磨きは何でもコルゲートだし、中型〜軽トラックは三菱じゃなくても全部キャンター。

昔は日本で、4WDの乗用車を全部ジープと呼んでいたのと同様に、米軍が残していったジープを改造して作った乗り合いバスは、今やベースがどんな種類の車でも、総称がジプニー。食品では、クノール(固形スープの素)なんてのもありますね。つまりアンティの頭の中では、アップル製じゃなくても、タブレット=iPadだったんでしょう。

叔母が持っていたサムソン製のタブレット、シカゴから一時帰国中の家族から貰ったもの。アップルに比べれば安いとは言え、今やサムソンはそこそこの高級ブランド。決して安物というわけではありません。タブレットやスマホの普及率が高いフィリピンでも、サムソン製を持っているのは、中流クラス以上だろうと思います。

そんな高価なものを紛失すれば、日本ならばともかく、ここフィリピンではまず絶対に戻ってきません。それは私が思うだけでなく、当のフィリピン人でも全員がそう考えるでしょう。ところが奇跡が起こりました。昨日、何と家内が、無くなったはずのタブレットを持って職場から帰宅。

事情を聞くと、まずアンティからの電話を受けて、家内が宿泊したリゾートに電話をしたことから始まり、リゾートのスタッフがタブレットを発見して、フロントに届けた。そしてタブレット発見の知らせが家内へ。たまたま仕事で、その島へ行っていた家内の友達が、タブレットを受け取った。さらにその友人が、家内の職場にタブレットを持ってきてくれた。

こんな具合に、驚くべき正直さと親切さの連鎖が何回も続いて成し遂げられた、快挙なのでした。今回は紛失場所が、外界がから隔絶されたような孤島で、そこで働くフタッフが少人数かつ、真面目な人ばかりだったことや、自然保護区に指定されているこの島で、家内の友達である大学生のキム嬢が、月一回のペースで調査をしていたことなど、幸運が重なったこともあります。

これが、普通のホテルとかだったら、まず最初でアウトでしょう。フィリピンではホテルの清掃担当などの人は、そんなにいい暮らしをしているとは考えにくい。忘れ物のタブレットを見つけたら、自分で使うよりも売払っちゃうかも知れません。たとえフロントに届けても、途中で誰かのポケットに消えるのが関の山。

とまぁ、かなり特殊なケースだったとは言え、やっぱり日頃フィリピンの悪い話ばかり聞くことが多いので、この国も捨てたもんじゃないと、とっても嬉しくなってしまいました。


しかも、このタブレットを最後に使っていたのが、どうやら私の息子だったらしい。アンティから借りて、ゲームでもしてたんでしょうね。見つかったのは、ビーチから少し奥まった場所にある、ベンチの上でした。このまま見つからなかったら、私が弁償しなくてはならなかったかも。


いずれにしても、久しぶりに気持ちのいい話でした。


2017年6月26日月曜日

安全軽視


2週間ほど前のこと、自宅の電灯が全部フリッカーし始めました。フリッカーとは、明るさが非常に短い周期で微妙に変化する状態で、明かりがちらついて見えること。蛍光管や白熱灯が古くなって、切れてしまいそうになると、よくこんな具合になります。最初に気づいたのは、数ヶ月前に交換したはずの場所だったので、ライトの品質問題かと思いました。買ったばかりの家電製品がダメになるのは、フィリピンではよくある話。

ところが、部屋の照明だけでなく、冷蔵庫や電子レンジの庫内灯までフリッカー。たまたま前夜、ネットに夢中になって2時頃まで起きていたので、目の疲れかなとも思ったり。翌日になっても同じ状態なので、家内やメイドさんに聞いたら、やっぱりフリッカーが見えるそうです。おまけに一昨年、日本の免税店で購入した日本製の炊飯器から、「ジー」と異音が。

そして私たちの家だけでなく、両隣の3軒の住宅でも同じ状況だということが判明しました。そこまで分かったのが土曜日で、週明けの月曜日に、ネグロスの電力を管轄するセネコ(CENECO : Central Negros Electric Cooperstive ネグロス中央電力)の事務所に電話をして点検依頼。

気になったので、フリッカーの原因というの調べてみたら、電圧が不安定になった時に起こる現象なんですね。そうこうしていると、昼前には請負業者がやって来て、付近の電柱に登ってなにやらゴソゴソやってます。珍しく対応が早いなぁと、ちょっと感心しましたが、フリッカーは相変わらず。

しばらく忘れてたら、夕方になって、少し離れた場所にある電柱に、さっき見かけたのと同じ車が止まり、業者さんが登ってゴソゴソ。案の定、フリッカーが出ていた我が家と近所の3軒は停電になりました。今度こそ不具合箇所が特定できて、部品かなにかの交換してるのかな?と思ってたら、何やら様子がおかしい。

人だかりが出来てザワザワして、そのうち救急車が。野次馬根丸出しにして見に行くと、どうやら修理をしている人が感電して、転落したらしい。まだ若い兄ちゃんが、コルセットで首を固定されて、まさに担架で救急車に乗せられようとしている。ひょっとして頭から落ちて頸椎損傷?

電気工事の業者さんに限らず、ここフィリピンでは安全対策をまったく無視して作業する人がほんとうに多い。トライシクル(バイクの輪タク)の運ちゃんでヘルメットかぶってるの見たことないし、家族で小さなバイクに、ノーヘル4人5人乗りなんてザラ。

自宅の工事中に、ヘルメットかぶっている大工さんが誰一人としていなかったし、サンダル履きで、釘を踏み抜く事故もありました。たまたま、我が家では大怪我したりはなかったものの、これは単なる幸運。他では、事故が多発してるに違いないと睨んでいたら、やっぱりでした。

今回の事故にしても、ヘルメットはしてなかったし、下まで落ちたということは、高所作業なのに命綱なしだったんでしょうね。死んだり後遺症の残る大怪我したりしても、保険に入っていない人は多いし、一家の大黒柱が寝たきりになったら、間違いなく家族は路頭に迷います。修理を頼んだ側としては、責任の取りようがないにしても、実に陰鬱な気分になりました。

その後、同じ電力会社に勤める知り合いを通じて、幸い軽症だったことを知りました。電力も1時間程度で復旧し、フリッカーも解消して一件落着。それにしても、この安全軽視の風潮はいつになったら終わるんでしょう。日本ほどガチガチにするのがいいとも思いませんが、もう少し何とかならないものでしょうか?


2017年6月24日土曜日

勝ち組...なんでしょうか?


「あなたは、勝ち組ですよ。」
先日、ある日本人の友達と喋っていた時の言葉。どういう会話の流れだったのか、はっきりとは覚えていませんが、皮肉とかではなく、私のフィリピンでの暮らしぶりや、状況をちゃんと分かっている人が言ったので、とても印象に残りました。

勝ち組なんて言われたのは、もちろん初めて。日本の企業に勤めて管理職にもならず、40歳になる少し前に鬱病をやらかして、50歳で早期退職。その後は無職のフィリピン暮らし。今のところストレスは全然ないし、悪くはない生活だと思います。でも、どっちかと言うと、経緯を見れば立派な負け組かも。負けではなくても、せいぜい本道から外れた、外れ組というところだと思ってました。

このブログで何度か書いているように、だからと言って捨て鉢になって、前後のことも考えずにフィリピンに逃走したわけではなく、10年に及ぶ準備期間があって、退職機会のタイミングをずっと待っていて、満を持しての海外移住。幸せな人生を実現するには、どうすればいいかを素直に考えての選択でした。

家電メーカーで工業デザイナーとして勤務していた28年間は、嫌でも勝ち負けを意識させられる日々。考案したアイデアが商品になるかどうか、まず同じ職場内での勝負があり、製品化されたら今度は他社製品に勝つか負けるか。そして、昇格で誰に勝ったとか、追い抜かれたとか...。そういうことをしたくて、美術系の大学に入り、デザイナーを目指したはずではなかったんですけどね。

考えてみると、40歳前後で勝負から降りて、50歳を目標に海外移住するまでは、給料分の仕事だけと割り切った私が、今頃になって勝者の側にいる思われるのも、不思議な話です。まぁ、勝つというのは、自分が思い描いた将来を実現することだとすれば、意外と客観的な評価なのかも知れません。

40代や50代で、仕事を辞めたり住む国を変えたりするとなると、ほとんどの日本人の場合、まず考えるのは経済的にやっていけるかどうか。私も例外ではなく、はっきり言うと、それをどうするかを考え続けた10年間。

日本での持ち家は早々に諦め、酒タバコも嗜まない。趣味と言えば読書にイラスト描き、週一のテニス。そんな感じでコツコツお金を貯めて、ちょうど50歳になろうという時に、会社で早期退職者の募集が。これこそ渡りに船とばかりに、金銭的はかなり有利な条件で計画実現の運びとなりました。

海外移住というと、何やら華やかなイメージがありますが、こう書くと実に面白味のない、地味なストーリー。後は年金受給年齢までは、貯金と退職金で食いつなぐ毎日。それでも、ここネグロスでは生活費が安く、慎ましくしてるつもりでも、ネグロスの中流家庭のレベルから見れば、十分金持ちの暮らし。確かにこれで負け組だと言ったら、地元の人が本気で怒りそうですね。


ツアーガイドはマーメイド


前回に続いて、ネグロス島のアイランドリゾート、ダンフガンのお話です。

ダンフガン島は、フィリピン国内に無数にある、ダイビングが楽しめるリゾート地のひとつ。とは言っても、ボンベを背負っての本格的なものではなく、シュノーケルとフィンだけのスキンダイビング。

フィリピン歴22年の私は、セブを始め、ボラカイやパラワンなどのダイビングが楽しめる場所を散々まわってきたのに、ダイビングはまったくの未経験。ダイビングが趣味の日本人の友達からは、何ともったいないと、羨望と非難が入り混じったようなことを、何回言われたか。

泳げないわけではありません。子供の頃は100メートルぐらいなら、プールの底に足をつけることなく泳ぎ切ってました。高校の臨海学校では数キロの遠泳もしたし、むしろ水泳は得意と言ってもいいぐらい。でも大人になってからは何となく面倒で、ビーチでちゃぱちゃぱぐらいなら大丈夫でも、背の立たない場所まで行くのが億劫になってしまいました。

今回は、ダイビング・インストラクター兼務のツアーガイドのお姉さんに「一緒に行かないと後悔しますよ〜」と笑顔で誘われて、ダイビングスポットまでのボートに乗船。


4月〜6月限定で、大学で海洋学を専攻している女子大生が二人、カルメラとプレシャスがツアーガイド。やっぱり海のことを勉強しているだけあって、海で泳ぐのが好きなんでしょうね。その上、毎日のようにダイビングしてるようで、二人ともよく日に焼けて、引き締まった身体。当たり前のように水深5メートルぐらいは、苦もなく潜ります。

実は家内もフィリピン大学では水産学専攻で、大学院を経て研究員になった人。プレシャスの先輩でした。

さて、10分ほどで、ダイビングスポットにある竹製のフローティングハウスに到着して、同行した家族や家内の親戚は、大喜びで泳ぎ始めました。ところが15人もいるのに、ライフジャケット未着用は、家内の従弟カルロだけ。日本のように、どの小学校にもプールがあって、夏場の体育は必ず水泳という環境にはないフィリピン。海辺暮らしでもない限り、そこそこは泳げるという人の方が、少ないんだそうです。


この状況で、ちゃんと泳げるところを見せればヒーローになれると、元来おっちょこちょいな私は、短パン一丁にゴーグルだけで、文字通り頭から海に飛び込みました。素潜りなんて何年ぶり(何十年?)でしょうか。一気に潜って、水底のサンゴにタッチ。ついでに、海中でびっくりして私を見てるカルメラ嬢に、親指立てて「イイネ」サイン。

ダイビングが終わって、ビーチにあるクラブハウスに戻ると、二人のマーメイドが私に「最初は水に入らないから、泳げないんだと思ってました〜!」。なんだか急に、評価が上がったみたい。プレシャスは、短期留学で広島の大学に行ったことがあるそうで、お好み焼きの話題で盛り上がりました。


暇さえあれば
双眼鏡で海を見ているプレシャス嬢

そして夕焼け。宿泊したコテージが、西に面したビーチに隣接していて、素晴らしい日没の光景を、1時間以上に渡って楽しむことができました。さらに、ほとんど人工の灯りがないダンフガン島。その夜の星空は、プラネタリウムでも敵わないんじゃないかというほどの物凄さ。夕焼けと星空だけを見るだけでも、ここに来た価値ありです。



2017年6月21日水曜日

静寂のダンフガン島


シカゴから里帰りしていた、家内の親戚5名。帰国早々に亡くなってしまった、家内の叔父の葬儀も済み、残った4名は、叔父が行きたかったというビーチや、温泉のあるマウンテン・リゾートなど、故人の意思を継ぐという名目で連日の観光三昧。楽しいことを封印してしまうのではなく、フィリピンらしい服喪と言えるかも知れません。

約1ヶ月に及んだネグロス滞在の最後に、隣街のバコロド在住の親戚も参加して、総勢10名がこの週末に私の家に泊まりで遊びに来ました。宿泊客は珍しくない我が家も、一度に10名受け入れというのは初めて。割と急な話だったので、食事の不足分は、近所のレストランで惣菜を買ってきて間に合わせましたが、問題は寝床。


約6畳ほどの広さのゲストルームは、シングルベットが二つだけ。折りたたみ式の簡易ベッドや、いつもは仕舞い込んでいるマットレスなど、総動員になりました。しかもこういう時に限って、朝からメイドのネルジーは、実家で緊急事態発生で急遽帰省。

とは言っても、そこはフィリピンの気安さ。雑魚寝には慣れている人ばかりだし、今回は小さな子供もいません。それに寒さとは無縁のネグロス島。ゴザと枕さえあれば、敷布団もシーツもなくても構いません。そんなわけで、なんとか全員収納しました。




さて、翌日の土曜日は朝5時に出発するとのこと。せっかくなのに、朝ごはんぐらいゆっくり食べて帰ったらいいのに。どうやら、亡くなった叔父の奥さん、家内の叔母のマミー・スモールが突然思い立って、その日に西ネグロスにあるアイランド・リゾートに予約を入れてしまったらしい。昔、家内も行ったことがある場所で、結局私たちも同行することになりました。だから、16人乗りのトヨタ・ハイエースをレンタルしてたのか。

そんなわけで、降って湧いたような旅行。行先のダンフガン島(Danjugan Island)は、シライから車で約4時間の場所から、さらにボートで30分のアイランド・リゾート。フィリピンでは、こういうスタイルが多く、ダイビングで有名なボラカイを始めとして、先日のラカウォンを含め、ネグロスだけでも何箇所もあるそうです。

早朝に出て、8時ごろにはカバンカラン(Kabankalan 人口18万の中核都市。東西のネグロス州を統括する、ネグロス・リージェントの首都)のジョリビーで朝ごはん。そこからさらに1時間少しで、ダンフガン島に渡るボートの船着場に到着しました。



前述のラカウォンは全島が白いビーチだったのとは対照的に、ダンフガンは珊瑚礁に浮かんだ緑の小山と言った風情。なんとなく、瀬戸内海の景色を思い出してしまいました。この島は、まるごと自然保護区に指定されていて、電話線もない。観光客はかなり制限されているようで、宿泊施設は、そんなに大きくもないコテージが4棟だけ。日帰り客を合わせても、1日に入島できるのはせいぜい20〜25名ぐらいでしょう。


そして電力は、クラブハウスの屋根に設置されたソーラーパネル頼り。使える電力はわずかで、エアコンはなし。携帯も圏外でインターネットにアクセスできず。さらには、カラオケもないしディスコもない。道路がないので、車もない。自然を楽しむ以外は、なぁ〜んにもない。フィリピンの観光地でも、こんな場所があったんですね。



こう書くと、サバイバル生活のように聞こえますが、建物は新しくてコテージはなかなか瀟洒な作り。蚊帳を備えた寝室は、絵に描いたような南国リゾート。食事は美味しいし、海はきれい。何よりも良かったのは、1泊2日の滞在中に付いてくれたガイドさんが、親切で明るくて、しかも現役女子大生だったこと。(すっかりオッさん視点でスンマセン)




自然保護区なので、4〜6月のこの時期だけ、大学で海洋学を専攻する学生さんをツアーガイドとして雇っているんだそうです。観光客が立ち入りを禁じられているエリアでは、滞在中にも、大学や研究施設のスタッフが調査活動をしていました。

長くなってしまいましたので、次回の投稿へ続きます。


2017年6月16日金曜日

千の風になって in フィリピン


またもや、お葬式関係の話題です。
叔父の葬儀の数日前、家内から唐突に、歌ってくれないかと頼まれてしまいました。いかにも歌や踊りのパフォーマンス大好きのフィリピンらしい。

フィリピンでの親戚や友達の前で歌を披露するのは、実はこれが初めてではありません。最初は20年前、私が西ネグロスの州都バコロド市の教会で洗礼を受けた時、儀式の後、神父さまを招いての会食で、家内の叔母に促されたのが最初。

急に言われたので、歌詞もカラオケも何にもなしで、仕方なしにアカペラでハリー・ベラフォンテの曲「Turn Around」を歌いました。ベラフォンテと言っても、私の世代ですら懐メロなので、若い人はまず知らないでしょうね。主に1950〜60年代に活躍したアメリカの歌手で、ダニーボーイやバナナボート(デイ・オー)が有名です。


こう書くと、私がまるでプロの歌手だと勘違いされそうですが、まるっきりの素人。ただ、歌うこと自体は大好きで、カトリック教会に通い始めた頃に、周囲の迷惑を顧みず大声で歌っていたら、それなら聖歌隊へどうぞと言われたのが、人前で歌うきっかけ。ロクに楽譜も読めないのに、ボイストレーニングだけは受けて、パソコンの音楽打ち込みソフトの助けで、毎週聖歌を練習。

そういう経緯なので、発声方法はどちらかというとクラシック。マイクを使ってカラオケで歌うのにはまったく不向きで、たまに家内と一緒にボックスに行くと、声が大きすぎると苦情を申し立てられます。

その後も、日本語はもちろん、教会のミサで歌うためにラテン語や英語、家内と結婚してからはタガログ語も少し暗譜。なので移住してからも、たまに「一曲頼む」とお願いされるわけです。

さて、今回は家内から指定されたのが「千の風になって」。日本では社会現象と呼ばれるほど流行ったこの曲。その頃、家内は私と一緒に日本に住んでいて、私が毎日のように家で聴いていたこともあり、一時は耳タコ状態。原詩は、アメリカ人のメアリー・フライという女性が書いたものだとされる「Do not stand at my grave and weep」。日本語版は2001年、新井満さんが訳詩・作曲して自分で歌い、2006年の秋川雅史さんの歌で、広く知られるようになりました。

ご存知のように詩の内容は、おおよそキリスト教の死生観とは異なり、死んでも天国へ行くのではなく、千の風や優しい日の光、雪や星になって、生前に愛した人を見守り続けるというもの。日本人の感性にはぴったりだったのか、好きな人が多いですね。

日本語を解する人が皆無のフィリピンなので、新井満さんのものではなく、キャサリン・ジェンキンスさんの、原詩での曲を歌いました。因みに英語でYouTubeを検索すると、同じ歌詞で何曲もの異なったメロディの「千の風」があることが分かります。


当日、バコロドの墓地の中にあるチャペルでの葬儀ミサの後、またもカラオケもマイクもなしのアカペラ。100名以上の参列者の前で無事歌い終わりました。後でみんなに聞いてみたら、家内以外に、この曲や詩について知ってる人は誰もいませんでした。とてもソウルフルで良い歌だと言ってくれましたが、やっぱり思いっきりカトリック大国のフィリピンでは、あまりピンとこないのか、そんなに有名ではないらしい。

それにしても、フィリピンの墓地は、墓石を立てずにプレート状にして埋め込むタイプが多く、広々とした空間があって「千の風」が似合います。特に親しい人を亡くした直後この歌詞を口ずさむと、救われた気持ちになりますね。


2017年6月12日月曜日

死後の世界も金次第

メディアがフィリピンを語る時に、とても高い頻度で使われるキーワードの一つが「貧富の差」。まるで貧富の差があること自体が、絶対悪のように書き立てた記事が多いですね。私はこの風潮があまり好ましいとは思えません。努力しようがしまいが、みんなが同じような暮らし向きになるのが良いことでしょうか。それを目指したソ連は解体され、中国は鄧小平によって、事実上のイデオロギーの改変を余儀なくされました。

努力と才覚で豊かになり、金持ちがさらに金持ちになるのは、資本主義を是認する限りは当然だと思います。ただ問題だと思うのは、貧困の歯止めがかからず、何世代も貧乏暮らしから抜け出せなること。そうなってしまうと、生まれた時から這い上がるチャンスすらなくなってしまう。

と、いきなり大上段に振りかぶった書き出しになってしまいました。ここフィリピンでは、私のような日本から逃げ出してきたあぶれ者でも、銀行の預金残高だけで見ると金持ち扱いされてしまいます。(もちろんそんなものは、滅多なことでは見せませんが)なので貧困者救済は支持しても、金持ち糾弾は無意味だというのが私の考え方。

そんな私でも流石に鼻白んだのは、西ネグロスの州都バコロドにある墓地での光景。先週投稿した、義理の叔父ダディの葬儀と埋葬のために赴いた墓地。一通りの儀式が終わって、参列者一同で敷地内のホールでの昼食後、時間が空いたので周囲を散策しました。

緑の芝生に、シンプルな白い墓標が並ぶのは、まるでアメリカの戦争映画のラストシーンのよう。思わず「千の風になって」を口ずさんでしまう景色です。


それと対照的なのが、ゲートから一番奥まったエリア。ここは墓地というより閑静な住宅地といった佇まいで、本当に一戸建て住宅のようなお墓が並んでいます。それぞれが意匠を凝らしたもので、一基の広さもちょっとした住宅並み。中には私の自宅よりも金がかかってるんじゃないかというものまで。



聖書の記述によると、生前に富を築いた者ほど天国に入るのが難しいとされてるはず。しかもこの墓地に埋葬されるということは、間違いなくカトリック信者。さらには、全然実用的ではなく、言って見れば遺族の見栄のためだけのようなお墓を、ここまで飾り立てるのは、一体どういう了見なんでしょうか?



ここまでくると「霊廟」

やっぱり私の感覚は、日本の庶民のものなんでしょうね。金持ちになるのは悪いことではなくても、必要以上にそれを見せびらかすのは、いい趣味とは言えません。フィリピンに限らず世界中どこに行っても、妬みを買うような行為は、何の得にもならないと思うんですけどね。




グレイブ・デザイナーという仕事が
十分成り立つフィリピン