2016年10月6日木曜日

奥さまはフィリピーナ...か? その6「ついに結婚」

前回の続きです。

1998年4月25日、私たちは、フィリピンのネグロス島・西ネグロス州の州都バコロドにある、ルピット教会(Lupit Church)という場所で結婚しました。4月末と言うと、フィリピンでは最も暑い季節。昔ながらのカトリック教会の聖堂には、冷房もなく、扇風機と扇子で何とか熱気を凌ぎながらの結婚式。

ミサを執り行っていただいたのは、前年、私に洗礼を授けてくれたスペイン国籍のパラシオス神父。式には総勢200名ものお客さんが来てくれて、そのうち日本人の出席者は、両親と弟2人に加えて、当時私が勤務していた会社のフィリピン法人に所属する2人の先輩社員、そして私を入れて7名でした。

親も来ているので、神父さまには、日本名で呼んでくださいとお願いしてました。でも式が始まると、そんなお願いも頭から消えたのか、神父さま自身が名付けた霊名「フランシスコ」で通してしまわれたのは、ご愛嬌。「お前のどこがフランシスコやねん?」と、母親には死ぬほど大笑いされてしまった。


バコロド市内にあるルピット教会

この結婚式に至るまでは、いろいろありました。
フィリピン滞在時には別荘に泊めてもらい、さらに家内を紹介してもらった家内の叔母夫婦。残念なことに、その人たちと絶縁状態に。しかし家内の両親には、思いの外気に入られた私。以後、家内の実家近くのペンション・ハウス(下宿)みたいな、小さなホテルに宿泊しながら、家内とはデートを重ねました。

そして一番たいへんだったのが、この両親に向かっての「お嬢さんをください」スピーチ。以前にも少しこのブログで触れましたが、ちゃんと原稿を用意して英語でのプレゼンテーション。海外市場向け電化製品のデザイン開発という仕事柄、英語での売り込みには慣れていましたが、あんなに緊張したことは、後にも先にもなかった。

当時住んでいた尼崎市内にあった、ショッピングモール「つかしん」の西武百貨店。そこで、小粒ながらもダイアの指輪を買い込んで、プロポーズの時には、ちゃんとプレゼントしましたよ。今でも正装の時、家内は結婚指輪とダブルで指にはめています。

それから直前には、カトリックの洗礼前の私の離婚歴に、式を挙げる教会から物言いが付いて、当時マニラにおられた、日本人の西本神父さまに助けを求めたりもしました。

さて、結婚式と披露宴の段取りはと言うと...。
私がしたのは、日本から現金30万円を持って来ただけ。場所の予約、衣装や食事の依頼、出席者への招待状、教会から式場のホテルへの移動手段など、すべて完璧に家内が仕切ってくれました。日本だったら当たり前でも、フィリピンでこんなに(日本人の感覚で)滞りなくセレモニーが進行するなんてのは、ほとんど奇跡。それは、だいぶ後になって、親戚や友人の結婚式や葬式に参列しての実感。この時が、家内の「フィリピン人離れ」した実務能力を目の当たりにした最初でした。

因みに、フィリピンならではの結婚式アイテムは、完全オーダーメイドの花嫁衣装。一生に一回しか着なくても、作るのが女性の夢なんだそうです。今でも実家のワードローブには、保管されているはず。それと欠かせないのが、豚の丸焼き「レッチョン」。私たちの披露宴では、さらに張り込んで、仔牛のレッチョンが用意されました。残念ながら新郎新婦は、ゆっくり食べてる間がなかったですが。

そして、フィリピン側の出席者が全員白の衣装。男性はバロン・タガログという麻で仕立てた襟のあるシャツ。女性もこれまた見事なまでに白のドレス。私も事前に「白かベージュ」と家内から教えられて、ベージュのスーツを持って行きました。結果的に、私の日本の家族だけが、日本スタイルの略礼服で真っ黒けということに。暑かったやろなぁ。知らなかったとはいえ、とても気の毒なことになってしまった。

結婚式の一週間後、新婚旅行先の隣島パナイから帰ってから、ネグロス島のバゴという街の市役所で婚姻届を提出。フィリピンでの手続きは、思ったより呆気なく完了しました。ところが情けないことに、フィリピンの法律では正式な夫婦なのに、日本での手続きは、これから。当然ビザもなく、家内はフィリピンに足止め。私は、新婚ホヤホヤの新妻を残して単身帰国です。マニラのニノイ・アキノ国際空港で、またもや「涙の別れ」となりました。

半年がかりの入国ビザ手続きの顛末は、次回に。


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