2016年10月20日木曜日

可哀想の国


このタイトル、フィリピンが可哀想な国という意味ではありません。フィリピン人の平均的なメンタリティを理解する上で、重要なキーワードだと思えるのが「可哀想」という言葉。

フィリピノ語で、可哀想は「カワワ」Kawawa。病気や貧困で困っている人を見て、「可哀想だなぁ」と言うのは「カワワ・ナマン」Kawawa naman となります。何となく日本語の語感に似ていますが、関係はなさそう。でも、ニュアンスも含めて日本語の「可哀想」と、完全に同じ意味のようですね。フィリピンでは、かなり頻繁に使われる表現のひとつ。

英語だと「プア」Poor が一番近い言葉でしょうか。私はフィリピノ語(タガログ)もイロンゴ語も片言レベルなので、フィリピン人との会話は主に英語。その場合「プア」もよく聞かれます。そして単に言うだけでなく、何かにつけて「可哀想がる」国民性。

分かりやすいのは、信号待ちや渋滞で停止している車の窓を叩く、子供の物乞いへの態度。私の感覚だと、いちいちお金を恵んでたらキリがないし、長い目で見てフィリピンのためにもならないと考えてしまいます。でも、フィリピンのドライバーは、かなり高い確率で窓を開けて、わずかでも小銭を渡しますね。私の家内も、手元に細かいお金があれば、数ペソでも上げるのが常。

家内の友達の家に泊めてもらった時、旅先でほとんどお腹をこわしたことがない私が、珍しくキツい下痢になってしまったことがあります。初対面ではなかったけれど、まだあまり親しいとは言えない間柄。それでも「可哀想に」とばかりに、家族を挙げて面倒を見てくれました。ちなみにこの家、旦那さんも奥さんも、結婚前に家内が勤めていた、フィリピン大学ビサヤ分校の教授。貧乏な人同士が助けあうというのは、フィリピンでよく聞く話だけれど、カワワ精神は、お金の有無とは関係ないんですね。

面白いのは、自分より弱い立場の他者だけではなく、時折自分に対しても発動されること。「アコ・カワワ」Ako Kawawa 「私は可哀想」は、フィリピンの慣用句。日本に住んでいる時に家内が、覚えたての日本語でこう言うので、最初は冗談かと思いました。自己憐憫と言ってしまうと身の蓋もないですが、これは弱さというより、生き方のひとつなんじゃないでしょうか。

日本人は「他人に迷惑をかけるな」とか「情けは人のためならず」(誤用で元の意味とは逆に使う)などと言って、他人に助けを求めたり、他人を助けること自体を極端に躊躇する傾向があります。一見立派な姿勢に思えても、社会全体でこうだと、窮屈で息苦しい。

人にも自分にも「可哀想」と思える社会では、人にも自分にも寛容になれる国。これは気候や食べ物よりも、人間が生きていく上で、一番大事なことなのかも知れません。陰湿ないじめもないし、自殺する人も滅多にいない。そもそも道を歩いている人の顔つきが穏やかです。家内が大阪の街を一人で出歩くようになった時、帰宅して私に言ったのが「どうして、みんな怒ってるの?」でした。やっぱり、そう見えるんですね。

特に最近の日本では、ネットでの袋叩きがひどい。下手すると相手を鬱病や自殺にまで追い込んでしまう。もう人権侵害の域にまで達しているほど。フィリピン人ではないけれど、可哀想だと思わないんでしょうか? もう日本の方がフィリピンより、よっぽど可哀想な国になってしまっています。


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