2016年10月17日月曜日

奥さまはフィリピーナ...か? その10「クリスマスの奇跡」

前回の続きです。

フィリピン人の家内と一緒になって、日本で暮らし始めたのが1998年の秋。お互いにもう30歳は過ぎていて、早めに子供が欲しいと思ってました。折しも20世紀の終わろうとしていた時期。できれば西暦2000年生まれの、ミレニアム・ベイビーだったらいいのに...。

ところが、こればかりは、思うようにいかないもの。二年経っても三年経っても、まったく音沙汰がない。ついに目標の2000年になってしまい、産婦人科で不妊治療も。別に双方とも問題はなかったようなのに、結局うまくいかず。諦めたわけでもないけれど、いつとはなしに産婦人科からも足が遠のき、なんとなく忘れてました。

2004年も残り一週間となった頃。
それまで住んでいた大阪府茨木市の賃貸マンションを引き払い、尼崎の実家で両親と同居し始めた年。三階建二世帯住宅の最上階が私たちの生活エリア。そろそろ寒くなってきたので、いつも使っていた石油ファンヒーターを引っ張りだして、シーズン初運転をしたところ、なぜか家内が、灯油の臭いが気持ち悪いと言い出しました。

今までそんなこと一度もなかったのに、と訝しく思いながらも、仕方がないので、それまで実家の納戸の中で埃を被っていた、電気ストーブが現役復帰。

そして忘れもしないクリスマスの翌日。もしかして...と、買ってきた妊娠チェッカーに、ものの見事な陽性反応が。二回やって二回とも「当たり」。その日は、母親がゴルフのクリスマス・コンペで初めてのホールインワンを記録したり、インドネシアのスマトラ島で大地震と大津波があったり、いろんなことが一度に起こりました。

翌日、私の母に付き添われて、近所の産婦人科で診察してもらった家内。間違いなく妊娠でした。その後、男の子だとわかった時は、父が大喜び。私の弟には、二人の娘がいて、父にとっての初孫ではないけれど、やはり最初の男の子の孫というのが嬉しかったらしい。日頃、日本語を忘れたんちゃうか?と思うほど、家族の前ではしゃべらない父が、珍しく饒舌に。

それにしても母親ですら、すぐにはそれと気づかぬほどだったのに、神さまは、ちゃんと覚えておられたんですね。一日遅れとは言え、私たち夫婦にとっては、奇跡のようなクリスマス・プレゼント。数ヶ月後、私は横浜へ転勤になり家族で引っ越し。息子が生まれたのは、翌2005年8月。横浜市内の産婦人科病院でした。


生後三ヶ月の頃

孫が生まれたと聞いて、私の両親だけではなく、フィリピンの義母もやって来ました。こちらも初孫ではないものの、フィリピン人らしく人目を憚らない愛情表現。実はこの時、義母はガンに罹患していることを知っていて、かなり無理しての渡航。結局、息子の一歳の誕生日の直後に亡くなりました。まさしく一生分を一度に、可愛がってくれたんでしょうね。

というわけで、子供が生まれて、このシリーズ投稿も10本目。キリのいいところで一旦終了とします。読んでいただき、ありがとうございました。ブログ自体は、まだまだ続きますよ。


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