2016年9月28日水曜日

奥さまはフィリピーナ...か? その4「神さまの思し召し」


前回の続きです。

初めて会った時の家内は、三十を少し過ぎたぐらい。童顔で、高校生と言っても通るような風貌でしたが、フィリピンの東大とも言うべき、フィリピン大学を卒業し、そのまま大学院を経て大学に残り、研究員をしているという「超」インテリ。

あまり結婚願望もなかったようで、叔母のミス・ママがどうしても会ってみろと勧めたから、仕方なく...というのが正直なところだったようです。

ところが話をしてみると、妙に波長が合う。どんな会話だったか詳しい内容は覚えていないものの、仕事のこと、趣味のこと、好きな音楽のこと。話題が途切れることがなく、相槌を打つポイントが感覚的にピッタリと一致。国籍の違いをまったく意識しなくてもいい。「映画を見て、同じタイミングで笑う」という例えがありますが、ちょうどそんな感じ。日本人同士でも、初対面では、なかなかこうはいかない。

というわけで、ちょっと悔しいけれど、ミス・ママの企みに見事にハマってしまいました。

後から思えば、まさしく「神さまのお導き」のように出会った、フィリピン人の家内。頑張って英会話を勉強したから、海外業務に抜擢され、海外の仕事に就いたからフィリピンに渡り、フィリピンに渡ったからフィリピーナの魅力を知り、そのために悩み、悩んだからカトリック教会に救いを求め、教会に行ったから新たな出会いがあり、その出会いがあったからネグロス島へ...。

こういうのを「赤い糸」と言うんでしょうか? どこか一箇所でも糸が切れてたら、家内とは会えなかったし、ネグロス島への移住もしていない。そして日比ハーフの息子も、この世に生を受けなかった。実は一番悩んでいた頃、マニラのホテルの一室で神さまに祈ったことがありました。

まだ教会の門をくぐる前。あんまり辛いので「神さま、どうか助けてください。もし助けてくれたら、毎週教会に通いますから」と3時間ぐらいも祈り続けたと思います。あんなに一生懸命祈ったのは、後にも先にもあの時だけ。しかもクリスチャンにもなっていないのに...。

そんな虫の良いお願いにもかかわらず、神さまは、たちどころに私の祈りを聞き入れて下さったようで、1年もしないうちに、私は生涯の伴侶に巡り合ったのです。まったく想像もしなかった経緯で。それからというもの、にわかに信心深くなった私。家内に会った数日後、ミス・ママの強引な勧めもあって、バコロドの教会でカトリックの洗礼を受けることになりました。

ところが神さまも、これでは簡単すぎると思し召したのか、結婚までは、これまた平坦ではない道程が。次回に続きます。


最初に貰った家内の写真
今でも財布に入れて持ち歩いてます



2016年9月27日火曜日

奥さまはフィリピーナ...か? その3「お見合い@ネグロス島」

少し間が空いてしまいました。家内との馴れ初め話の続きです。

伊丹教会で知り合った、日比国際結婚のMさん夫婦。旦那さんが日本人だと書きましたが、実は日比ハーフ。太平洋戦争の開戦前に、日本から単身フィリピンへ移り住んたお父さんと、その移住先のネグロス島生まれのお母さんの間に、生まれたのがMさん。

日本の敗戦で、お母さんだけを残し父子だけで内地に引き上げ、当初は日本語も満足に喋れず、ずいぶん苦労されたんだとか。成人後は日本人の奥さんと一緒になり、お子さんにも恵まれました。その奥さんに先立たれて、再婚相手に選んだのが、生まれ故郷ネグロス出身の女性。それが、私の家内の叔母さんだったというわけです。

自身もフィリピン人と結婚し、多くの日比カップルの世話をしてきたというMさん。私の話を親身になって聞いてくれました。私が会話が成り立つ程度の英語ができると知って、奥さんも一緒にアドバイス。そのうち、この奥さんも私に同情して、日曜日のミサの後は、ほとんど毎週お昼ご飯を一緒に食べながら、悩み相談室のような感じに。

奥さんのニックネームは「ミス・ママ」。晩婚で、若い頃は三人いる姪っ子たちの面倒をよく見ていて、結婚していないのにママのようだったから。結婚してからもそれは変わらず、家族や親戚だけでなく、親しい友達もそう呼んでいました。

その後いろんなことがあって、結局私は恋人のマリーと別れました。とても落ち込んだものの、肩から重荷を降ろしたような安堵感も。そしてそんな状況を喜んだのがミス・ママ。私と一回り程度しか年齢は違わないけれど、どうやら、自分の息子でも心配するような感覚になっていたらしい。

その年のお盆休み。私はMさん夫妻に招かれて、ネグロス島のバコロド市にある別荘に、数日お邪魔することになりました。今から思えばこれは完全に仕組まれていて、バコロド空港にはミス・ママのご自慢の姪っ子、のちの私の家内が、精一杯のおめかしをして待っていたのでした。「もしよかったら、誰か紹介するよ」とは言ってましたが、まさかこういう展開が待っているとは。

まだまだ長くなりそうなので、次回に続きます。


フィリピンへ向かう機窓からの眺め


2016年9月24日土曜日

大統領の反撃 証人は監獄シンガー


レイラ・デリマ上院議員
出典:ABS-CBN News

もうなんだか無茶苦茶な展開になってきた、フィリピンの政局。ドゥテルテ大統領の麻薬撲滅の常套手段「超法規殺人」。それを調査するために発足した司法・人権委員会。これは、永年のドゥテルテの政敵ともいうべき、前司法長官で現職の上院議員レイラ・デリマ氏が委員長を務め、大統領の犯罪を暴くべく、人権団体の後ろ盾で活動をしていました。

ところが、喚問された証人のエドガー・マトバトという人物が、どうにも胡散臭い。彼は、大統領がダバオ市長時代に指揮した「処刑団」の一員とされています。その証言内容が矛盾だらけで「30人で銃撃したが、被害者はまだ生きてた」とか「殺害はマクドナルドのホテルで行われた」とか...。(ハンバーガー店にホテル!?)

早速、フェイスブックには「30人がかりで撃たれて死なないって、そいつは戸愚呂弟か?」(フィリピンでも放送されている日本製アニメ「幽遊白書」の不死身のキャラクター)「次の証人は、マクドナルドのピエロか?」といった、加工した写真付きで嘲笑する投稿が溢れました。結局マトバトは「私は嘘をついていた」と告白。

そして事態は急転直下。大統領弾劾の急先鋒だったデリマ議員が、司法・人権委員会の委員長を解任されたかと思ったら、逆に司法長官時代の汚職を追求されることに。今度の証人は、はるかに大物で、刑務所に服役中の「麻薬王」こと、ハーバート・コランコ。この男が証言した日は、一日中テレビで喚問の様子が生放送され、私も家内と一緒に見てました。

タガログ語がほとんど分からない私。当初コランコは、司法側の証人かと思ってしまった。それほどカメラの前のコランコは、リラックスして弁舌も爽やか。時折笑みさえ浮かべる余裕。後で聞いた話では、罪状は麻薬取引に強盗、誘拐。正真正銘の犯罪者のくせに、獄中で自分の歌を録音し、その曲はフィリピンで大ヒット。専属のマネージャーまでいるそうです。YouTubeを探せば、プロモーションビデモまでアップされてる。そりゃ、カメラ慣れしてるはずだ。


刑務所内で収録されたとは思えない
プロモーションビデオ

以前から指摘されていた、モンテンルパ市にあるビリビッド刑務所の腐敗ぶり。ここでは、公然と麻薬が製造され、その金で所員を買収。重罪で服役しているはずの受刑者たちは、所内に建てられた高級ホテルのような「別荘」に住み、大理石の浴室を使い、外部からストリッパーを招き入れ、まるで王様のような暮らしをしていたそうです。コランコが自分の曲を録音したのも、その中に作られた私設スタジオ。

コランコの証言によると、この状況を黙認し、さらにその便宜まで図っていたのが、司法長官だったレイラ・デリマ。コランコの話は実に具体的で、賄賂の金額や、賄賂の授受に使われた連絡用携帯の番号まで明らかに。なんとテレビの生中継でその番号をバラしたもんだから、デリマ議員の携帯には、2000件ものいたずら電話やメッセージが。

ここまでいくと「まるで映画のような」どころか、ほとんどコメディ。外国人に過ぎない私には、いずれの証言が正しいのか、断定することはできませんが、フィリピン国民がどちらの言い分を信じるかは明白。一時劣勢かと思われたドゥテルテ大統領ですが、どうやら強烈な反撃で、形勢を逆転させたようです。


2016年9月23日金曜日

奥さまはフィリピーナ...か? その2「教会で会いましょう」



前回に続き、今回は家内との出会い編です。

もし私たち夫婦が、日比国際結婚のカップルとしてユニークだとしたら、それは出会いのきっかけになったのが、少々変わった場所だということになるかも知れません。1980年代頃のフィリピン女性と日本人男性の出会いの場と言えば、多くがフィリピンパブやバーだったのだろうと推測されます。

ここ最近では、フィリピンが安価に英語を学べる留学先として人気で、中高年のオジさんばかりではなく、大学生、あるいは高校生が休暇を利用するなどして渡航。また、日本のNGOへのインターンや、産学協同プロジェクトに参加したり、短期の観光以外の長期滞在する若い世代の日本人が確実に増えています。

それでも、カトリックの教会を通じて出会い、ゴールインする日比の男女というのは、まず滅多にいないでしょう。少なくともカトリック信徒である私も、聞いたことがありません。

今から約20年前の1997年、最初の結婚生活に破れた後、仕事で行ったマニラで知り合った、若いフィリピン女性マリーとの、辛い恋愛真っ只中だった頃。私は、数ヶ月に一度しか会えない彼女への恋慕と将来への不安で、心療内科で睡眠導入剤として処方してもらったデパス無しでは眠れないほど、精神的に追い詰められていました。

当時の私は、自動車通勤。毎朝決まって信号待ちで停車していた交差点にあった、目立つ建物が気になっていました。それが「王たるキリスト・カトリック伊丹教会」通称・伊丹教会。フィリピン人は、ほぼすべてがカトリックの信徒。もちろんマリーも例外ではありません。この教会は、何となく彼女のとの接点のように思えました。

そんなある日、停車した車のドア越しに見えたのが、教会の壁にあった貼紙。

  求めなさい。そうすれば与えられる。
  探しなさい。そうすれば見つかる。
  門をたたきなさい。そうすれば開かれる。

  新共同訳 新約聖書 マタイによる福音書7章7節

こういうのを「背中を押された」とでも言うんでしょうね。心が弱っている時に、さぁどうぞお入りなさいと促された気分。実は私、小学生から中学生にかけての数年間、友達とバザーに行ったのがきっかけで、尼崎市内の塚口教会というプロテスタントの教会に通った経験があります。とは言っても洗礼を受けるには至らず、そのままいつの間にか教会とも疎遠に。

なので、この言葉も知ってはいました。でも、聖書の一節が、こんなに心に響いたのは、生まれて初めて。その次の日曜日の朝、私は伊丹教会のミサに参加したのでした。

早速ミサの後、暗ぁ〜い顔してた私に、教会の世話役みたいな初老の男性が、声をかけてくれました。自殺でもしそうに見えたのかも知れません。そこで、教会の門をくぐることになった(日曜日は最初から開いているので、叩きはしなかった)顛末をお話ししたところ、まるで待っていたように紹介されたのが、たまたま同じミサに与っていた、日本人の夫とフィリピン人の奥さんのカップル。

これが今にして思えば、家内の叔母さんとの出会いでした。

ということで、長くなりそうなので次回に続きます。

2016年9月21日水曜日

奥さまはフィリピーナ...か? その1


フィリピーナ(Philipina)。「フィリピン女性」を意味し、本来は、それ以上でも以下でもない言葉。ところが、日本でフィリピーナというと、フィリピンパブに勤めるホステスやダンサーを連想してしまう人が多い。さらに、フィリピーナは陽気で騒がしいとか、エキゾチックな顔立ちの美人だとか、お金や時間に対してルーズだとか...。

このステレオタイプは、1970年代後半から80年代のバブル時代、フィリピンから大挙して押しかけてきた若い出稼ぎ女性、通称「じゃぱゆき」さんによって作られました。さらに、今では古典となった、久田恵さんの「フィリッピーナを愛した男たち」や、山谷哲夫さんの「じゃぱゆきさん <女たちのアジア>」などの著作によって、完全に定着した感があります。

その後、急増したフィリピーナと日本人男性の結婚。1990年代以降は、「日本人夫」が、自らの日比国際結婚の経験を綴った書籍も、多く出版されました。今藤元さんの「奥さまはフィリピーナ」は、その中でも出色の出来。概ねフィリピーナは愛すべき存在という、通奏低音はベースになっているものの、やはり彼女らの金銭や人間関係の感覚は、日本人の常識から乖離している、との印象は避けられない。

ここで断っておきますが、私は、フィリピンパブやカラオケバーで知り合ったフィリピン女性との結婚を、見下したり否定したりする意図はまったくありません。私自身もかつては、そのような女性と恋愛関係にあったこともあるし、幸せな結婚をして、子供たちと平和に暮らしている人たちの人生を、微笑ましいと思いこそすれ、ケチをつける気など皆無。

ただ、特定の職種の女性のみに焦点を当てて、その特徴が全フィリピン女性に当てはまるというのは、かなり違うんじゃないかと思うのです。水商売に従事する人は、フィリピンの場合は、所得の低い層の出身者がほとんど。自ずと高等教育を受けるチャンスに恵まれなかった人も多い。

当たり前の話ですが、フィリピンには水商売以外にも、多くの職業があります。特に日本よりずっと、いろんな分野で働く女性の比率が高い国。私が個人的に知っている女性だけでも、大学教授、貿易を営む実業家、金融業の経営者、大手銀行の支店長、百貨店の売り場主任などなど...。

この人たちにほぼ共通して言えるのは、時間はきちん守るし、約束に遅れそうな時は連絡してくる。お金にはシビアで、間違えても「お金借して」とは言いそうにない。毎週日曜日には、教会に通うクリスチャンで、美人でも露出度の高い服を着ているのは、見た事がない。そして、職業に対する責任感は強い。

要するに、日本人でもかなり真面目な部類に属するタイプ。でも、お堅い雰囲気はあまりなくて、パーティやカラオケは大好きで、よく笑う陽気な人たち。我が家のメイドさん、ネルジーも、真面目さ加減とよく笑うことにおいては、同じグループ。

とまぁ、長々と前振りを書きましたが、私の家内は、フィリピン女性であることは間違いないけれど、日本で流布されたフィリピーナという言葉のイメージからは、遠く離れているということが言いたかったのです。

実はこのブログでは、この家内との馴れ初めや、彼女の来歴をあまり詳しくは書いてきませんでした。ところが最近、このブログの読者の方から「一体どうやって奥さまと知り合ったのか、ぜひ書いてほしい」と直接ご要望をいただきました。ということで、これから何本か続けて、家内のことにスポットを当てていこうと思います。



フィリピン関連の蔵書
一時期、よく読みましたね


2016年9月20日火曜日

トリリンガルの大統領


フィリピンの言語分布
出典:Wikipedia

暴言、失言。もう最近は何を言っても、少々のことでは周囲が驚かなくなった、ドゥテルテ大統領。その政治的意図は別にしても、あまりの言いたい放題加減で「ドゥテルテ劇場」と呼ばれ、日本でさえフィリピンの指導者としては、異例なほどの注目を浴びているようです。

では、実際に大統領は何語で喋っているのでしょうか? これは意外と日本では知られていないようですが、実は三つ(あるいはそれ以上)の言葉を使っています。フィリピンの公用語は、タガログ語として知られるフィリピノ語と英語。これに加えてドゥテルテが子供の頃に移り住んだ、ダバオの言葉セブアノ語。彼は、この三言語を操るトリリンガル。(生まれ故郷のレイテ島は、ワライ語というまた別の言語圏です。)

大統領になる前、長く市長を務めたダバオ。おそらくダバオ市民には、セブアノで語りかけたのでしょう。因みにフィリピンではセブアノを母語とする人はタガログよりも多く、今でもなぜフィリピンの公用語にしなかったのかと、愚痴る人も多い。

こういう話を聞くと日本人は、「多くの日本の政治家と違って、多言語を使えるのはすごい!」と短絡的に考えてしまいがち。しかしながらフィリピンの場合、多言語社会であることが、必ずしもいいことばかりとは言えない気がします。

私が、多言語社会のデメリットを一番に感じるのが教育。私たちの住むネグロス島のように、母語がタガログではないビサヤ語圏などの場合、小学生になった途端、三言語の勉強が始まります。英語、タガログ語、母語(現地方言のイロンゴ、ビサヤ語群の一つ)。しかもややこしいのは、社会科や家庭科をタガログ語で、算数や理科は英語で教えます。

つまり、英語やタガログ語でつまづいてしまうと、ほぼ全教科で落ちこぼれになることに。そんな児童のために、親が家庭教師(チューター)を雇うことは、割と一般的。しかしそれができるのは、比較的裕福な家庭に限られるので、一旦授業についていけなくなると、ずっとダメになってしまうケースが多い。

大人になってからも、何か自分で勉強しようと思っても、書店に並ぶ本の大部分は英語。タガログ語の書籍もありますが、専門書に至っては英語以外のものを見たことがありません。ここでも英語が不得手だと、決定的なハンディキャップ。

私の感覚からすると、ただでさえ貧富の差が極端に大きなフィリピンで、その傾向に拍車をかけているのが多言語社会。貧困層の生まれでも、理数系の才能があれば、あるいは将来が拓けたかも知れない。そんな子供が、英語で落ちこぼれると先に進めない。実にもったいないことです。

ドゥテルテ大統領も、英語とタガログ語を母語のように流暢に話せるのならば、問題はないのでしょうけど、家内によると、どちらもあまり上手いとは言えないらしい。英語は私が聴いても、かなりのビサヤ訛りですね。

先日、ラオスでのASEAN国際会議で、アメリカのオバマ大統領を「売春婦の子供」と罵倒したと話題になってしまいました。元は、報道でタガログ語での発言となってる「Putang ina プータン・イナ」。実はこれ、セブアノでも慣用句。意味は「クソッタレ」。誤って伝えられた「Putang ina mo プータン・イナ・モ」の直訳「売春婦の子供」とはだいぶニュアンが違います。(それでも大統領が公式の場で使う言葉としては、完全にNGですが。)

ここからは、完全に私の想像。ドゥテルテ大統領の暴言癖は、彼の多言語に対するコンプレックスが根本原因ではないでしょうか? 母語のセブアノに比べて、イマイチ思ったことを表現できない英語やタガログ。喋っているうちにイライラしてきて、つい母語の汚い言葉で感情を爆発させてしまう。ダバオ市長だった頃ならば、これでも何とかなっても、さすがに一国の最高指導者になってしまうと、ご愛嬌では済まされない。

いずれにしても、公用語が二つあって、その一つが旧宗主国の言葉。私は、これは明らかに植民地化を経験した歴史の負の遺産だと思います。せめて、公用語を一つに絞った方が、国民にかかる負荷が小さくなると思うのですが。まぁ、フィリピン国民にしてみれば、大きなお世話かも知れませんね。


2016年9月17日土曜日

女子大生@シライ市テニスコート


昔に比べると、日本からフィリピンに渡航する人の平均年齢がぐっと下がり、かつてはオっさんばかりだったのが、若い女性も来るようになった...と嬉しそうに投稿してから、もう2年。最近では、ネグロス島内で活動する、日本のNGOに参加する学生さんが、我が家を訪問してくれることが多くなりました。「ネグロス島」でググって、このブログを見つけました、と言ってもらえることもしばしば。

先週の9/12は、月曜日がイスラムの祭日で3連休。その最後の休日を利用して、またまた女子大生お二人が、お泊りのお客さん。宿泊だけでなく、テニスをしたいとのご要望で、当日は朝からシライの市営コートで約1時間半。

ダブルスができるようにと、いつものフィリピンの友達、ババロ君にも参加してもらいました。私より一回り若いとはいえ、もう40歳のババロ。お一人はテニス初心者だと紹介すると、喜んでコーチ役に。相手が若い女の子だと、こんなに丁寧に教えるのかっ!

喜んだのはババロだけでなかったようです。準備運動してると、コートのまわりに住んでいる連中が、ゾロゾロと集まってきました。男ばかりではなく、家族連れやら小さな子供たちやら。いつもババロと私二人で黙々とシングルスやってる時は、みんな知らん顔のくせに。しかも頼みもしないのに、最近滅多に寄り付かない小学生の男の子二人が、自発的にボールボーイ。君ら、日本の女子大生がそんなに珍しいのかっ!

と言いつつも、やっぱりババロ相手に無愛想に打ち合うより、かなり楽しかったのは否定しません。久しぶりにまとまった量の日本語も喋れました。

午後からは、少し早めに晩ご飯の支度。事前に聞いていた食べたいものは、餃子と麻婆豆腐。今回は自分で料理ができる女性二人だったので、いろいろ手伝ってもらいました。やっぱり餃子の包み作業は、ワイワイやるのが楽しい。


日本と違って、レトルトの麻婆豆腐はないネグロス島。味噌、オイスターソース、酒などで手作りします。本当は赤味噌がいいのですが、シライで入手できるのは白味噌だけ。それでも、なかなかいい感じの仕上がり。

夕食後はテニスの疲れで、早々にゲストルームに引き上げたお二人さん。夕方、近所にお化けが出るという噂の空き家があると教えたら、それをネタにしばらくキャーキャー盛り上がってました。ちょっとした修学旅行状態。最後まで楽しんでいただけたようで、よかったよかった。


シックスパック

フィリピンに移住したのが、3年前の4月。それから約半年後に72キロだったの体重が、何も特別なことはしないのに、65キロまで落ちてしまいました。当初は病気かなと心配したものの、体重減以外は、まったく健康そのもの。よく眠れるし、食事は美味しいし、お通じも快調。

そして、さらに体重が減って63キロ。見た目がずいぶん貧相になってしまい、筋肉を付けよう!っとばかりにシライ市内唯一のジムに通い出したのが、2年前の7月でした。月600ペソ(約1400円)で、日曜だけが休み。かなり本格的なマシンが揃っていて、朝6時から夜8時まで、その間いつでも好きなだけ利用できます。


最近、日本で流行っている「ライザップ」。それ以外にもダイエット目的のジム通いは、私が移住してからずいぶん一般的になったようですね。ここフィリピンでは、もっと以前からジムは繁盛。隣街の州都バコロドには、軽く10軒ぐらいはあるんだとか。ボクシング・ジム等との併設が多いようで、シライのジムにもボクシングとテコンドーのインストラクターが常駐してました。

ネットの日本語サイトで「シックスパック」なんて言葉をよく見るようになったのは、ここ1〜2年ぐらいでしょうか? 最初は何のこっちゃと思ってましたが、要するに割れた腹筋のことなんですね。

その後、ジム通いが面倒になって、ダンベルとフィットネス・ベンチを購入して、自宅筋トレを始めたのが去年の9月。これが自分で思ったより続いておりまして、ついに薄っすらですが、シックスパック(らしきもの)が現れました。


現在の体重は、一番減った時より2キロ増で65キロ。それでも日本にいた頃のジーパンは、腰回りがユルユルのままなので、多分これは筋肉の分。1年ぶりぐらいに会う人には、ガッチリしたとか、スリムになったと言われるので、どうやら2年がかりの肉体改造は、成功したようです。

日本人からもフィリピン人からも、どうやってシェイプアップしたのかとよく尋ねられますが、私の場合、ただ住む場所が変わったというだけで、9キロも体重を落としました。普通は上半身に筋肉つけるより、お腹まわりを痩せる方がはるかに難しいはず。それが「勝手に達成されてしまった」ようなものなので、偉そうに他人様に指南などできるはずがありません。

移住後、気候以外に変わったことと言えば、夕食の時間が午後7〜8時に固定されたこと。昔は深夜までの残業後、帰宅してから夕食が真夜中なんて当たり前でした。そして大きいのは、退職して完全ストレスフリーになったことでしょうか?

誰でも仕事を辞めてフィリピンに住めば、痩せられる...わけではありませんけど、気楽な暮らしをしながら健康的に痩せられる(かも知れない)ので、移住を考えておられる方は、ぜひ「南国ダイエット」に挑戦されてはいかがでしょうか?


2016年9月14日水曜日

二重国籍について


自宅ダイニングの窓を飾る日比両国旗

このところ日本では、二重国籍が話題になっています。それも、あまり建設的とは言えないことが発端。渦中の政治家の方の発言内容や進退問題について、敢えて言及はしませんが、こんな取り上げ方で、二重国籍の問題についての深い理解や考察が進むとは考え難い。下手をすると、「二重国籍イコール良くないこと」みたいな、根拠のないネガティブなイメージだけが蔓延するのではと、心配になります。

このブログを読んでいただいている日本国籍の方の中には、配偶者がフィリピン国籍で、お子さんが日比両国の二重国籍、という人もおられると推察します。私の息子も、今のところはパスポート二冊の保持者。やっぱり今回の件は、無関心ではいられない。

フィリピンは、積極的にではないにせよ、二重国籍を認めています。その他には、国によって条件の違いはありますが、アメリカ、ロシア、台湾、多くの欧州諸国なども。これに対して、日本は原則として二重国籍を許していません。ただし、私の息子のように、出生時すでに二重国籍で、相手国(フィリピン)が二重国籍容認国の場合、22歳までその状況を維持できて、22歳到達までにどちらかの国籍を選ぶ、ということになります。(それ以外の事例については、私には知識がありません。)

私は、この規定はとても合理的だと思っています。子供の間は、両親や家庭の事情によって、それぞれの国を頻繁に往き来することもあるでしょう。日本とアメリカのカップルのように、相互にビザなしで渡航できるのなら、あまり問題ではない。しかし、フィリピンから日本は、一時期に比べれば手続きは簡素化したとは言え、まだまだビザ取得は大仕事。急な移動にはとても不便です。

22歳にもなれば、自分の判断で国籍を決められるだろうし、国籍を一つに固定することで生じる制限についても理解できる。諸手続きに保護者の手を煩わせることも、なくなっているでしょう。私としては、息子が22歳になる時に、日本国籍を選んでほしいとは思うものの、そこは飽くまでも本人が決めること。今は日本のパスポートの方が、何かと有利なことが多いけれど、10年以上も先の国際情勢は、どうなってるか分かりません。何より息子が、どちらの文化にアイデンティティをより重く感じるかが、一番大事。

ただ、少々疑問に感じるのは、22歳以降も二重国籍のままでいても、現行法では明確な罰則規定はないし、日本政府側から確認する方法もないという点。要するに事実上「奨励」でしかなく、黙っていれば分からない。嫌な言い方ですが、正直者が馬鹿を見ることになりかねません。そんなザル法だったら、二重国籍を認めればいいと思ってしまうのは、私だけではないでしょう。

今回の問題を受けて、何らかの法改正が行われるのでしょうか? むしろそうなれば、日本の国籍法についての議論が、きちんとできるチャンスです。高齢化、少子化が進む日本で、海外からの労働者や移民の受け入れは、どうしても避けて通れない課題。国境を越えて人が入り混じれば、必ず国際カップルは生まれます。

いまだに私は、日本の知人や友人から「奥さんは、日本に帰化されたんですか?」と訊かれることがあります。日本人と国際結婚の条件が、日本国籍を取得することだと漠然を思っている人が意外に多い。それほど、国籍に関する一般の人の知識は貧弱だということ。

何かの問題が顕在化してから、泥縄式に騒ぐのではなく、今回の出来事を奇貨として、国の将来に役に立つ行動に結びつけてほしいものです。


2016年9月13日火曜日

火山列島フィリピン

先週の9月6日付けの Rappler の報道によると、フィリピン火山地震研究所( PHIVOLCS Philippines Institute of Volcanology and Seismolog )は、この国で最も美しいとされる、ルソン島南部のマヨン山で、数日中に大規模な噴火の可能性があると発表しました。

フィリピンの火山というと、1991年に、20世紀最大規模の噴火で世界的に有名になった、ピナトゥボが思い出されます。この時、大気中に放出された火山灰の影響で、2年後の1993年に日本は深刻な冷夏に見舞われ、いわゆる「1993年米騒動」が起こりました。

私が「タイ米」(インディカ米)という言葉を初めて耳にしたのも、確かその時。今では毎日食べていて、別に不味いとも思わないインディカ米ですが、当時は、何かとんでもなく質が悪い米のような言われ方をしてましたね。

ピナトゥボの場合、噴火する以前は、地元の人にさえほとんど知られていない、地味な山だったそうですが、今回話題になっているマヨンは、フィリピン人ならば知らない人はいない山。まるで日本人にとっての富士山です。富士山と同じく成層火山のマヨン。姿形が似ているだけでなく、フィリピン国民がこの山に寄せる心情は、まったく富士山と同じ。私の家内を含めて大抵のフィリピン人は、「富士山よりも美しい」と胸を張ります。

さらに似ているのは、有史以来何度も激しい火山活動による火砕流などで、周辺住民に多くの犠牲者を出したこと。特に1814年の大噴火では、流れ出た溶岩流で、山頂より10キロ離れたカグサワという街が壊滅。1200名もの死者が出ました。


今は教会の鐘楼跡だけが残るカグサワの廃墟
出典:VERA Files

最近で有名なのは、1984年の噴火。PHIVOLCSとアメリカ地質研究所の火山学者たちが、小規模噴火で一度避難人々を「まだ噴火の可能性がある」として、避難先に留めたお陰で、数週間後の大噴火では一人の犠牲者も出ませんでした。

しかし2006年の噴火では、台風による豪雨が重なり、堆積した火山灰の土砂崩れ(ラハール現象または火山泥流とも言われる)が発生。死者620名、行方不明者710という、近年では最悪の事態に。

私たちが移住した2013年以降も、火山弾で登山客が死傷したりしています。日本でも一昨年の2014年、木曽御岳で58名もの人が亡くなる火山災害があったばかり。考えてみると、台風に地震に火山。フィリピンと日本は、本当に同じような自然災害に悩まされている国なんですね。

実は、私たちの住むネグロス島も立派な火山島。主峰のカンラオン山は、今でも時折山頂から、うっすら噴煙を立ち昇らせる活火山で、前述のPHIVOLCSが、火山活動を継続して監視しています。すぐに大爆発を起こしそうな気配はないものの、やはり相手は大自然。いつ牙を剥くか分からない怖さを感じています。


2016年9月11日日曜日

フィリピン式エスカレーターの歩き方

フィリピン最大のショッピング・モール、SM(スーパー・モール)が「歩く人のためにエスカレーターの片側を空けましょう」というキャンペーンを始めました。と言っても、私が実際に見て確認してのではなく、フィリピン人のフェイスブックへの投稿。

それによると、「Walk on the LEFT, Stand on the RIGHT」歩く人は左、立ち止まる人は右。つまり、歩く人のために、左側を空けることを奨励している。

このルール(マナー?)、日本でも話題になってましたね。全国的には右側を空けるのに、なぜか大阪だけ左側だとか。いや、そもそもエスカレーターを歩いたら危ないから、空ける必要がないとか。日本だけでなく、イギリスやオーストラリア、ニュージーランド、マレーシアなどで行なわれている習慣なんだそうです。イギリスとマレーシアは、仕事で何度も渡航しましたが、気が付かなかった。

外国のことはさて置き、なぜ今更フィリピンで?
シライ市内でエスカレータのある建物は、空港のターミナルビルぐらいですが、近隣のタリサイや州都バコロドには、SMシティ・バコロドを含めて、大きなショッピング・モールがあるので、エスカレーターはたくさん稼働してます。

もう移住して3年以上になるのに、エスカレーターで歩いている人なんて、見た事ない。(故障してよく止まるので、そんな時は歩いてますよ。)道歩いてても、みんなゆっくりだし、関西人の私を追い抜くフィリピン人は皆無。考えてみたら、朝のジョギングやスポーツ以外で、街中走ってる人さえ見た記憶がない。急がず焦らずが、国是ではないかと疑いたくなるこの国。どう考えても、こんなルールを導入する意味が分からない。まず、定着するとは思えない。

ただ、面白かったのは、フェイスブックの投稿をシェアしたら、フィリピン人の友達は無反応だったのに、日本人は結構コメントくれたこと。やっぱり皆さん、日頃から気にしてるみたい。この手の公共空間でのルールやマナーって、日本人は本当に敏感ですからね。

さて、およそフィリピンに似つかわしくない、このルール。守られるのかどうか、しばらく静観したいと思います。


2016年9月10日土曜日

私的名曲選5 「マイ・ブーカス・パ」(明日があるさ)


May Bukas Pa マイ(May)〜パ(Pa)で「〜もある」。ブーカス(Bukas)が「明日」。今回は、タガログ語でまさしく「明日があるさ」という題名の歌をご紹介します。

「明日があるさ」というと、1963年(昭和38年)に発表の、今は亡き、坂本九さんが歌ったヒット曲を思い出します。私が生まれた翌年のことなので、もちろん当時のことは覚えていませんが、小さい頃からラジオやテレビで聴いていたんでしょうね。曲自体は何となく知ってました。

最近では(と言っても、もう15年も前)、ウルフルズによる、オリジナルの歌詞プラス・アルファ替え歌版のカバー・バージョンの方が、すっかり有名に。いずれのものも、ちょっとコミカルな歌詞。

「マイ・ブーカス・パ」は、それとは全然関係のない、タガログ語の歌。詳しくは分からないのですが、家内によると1986年のエドゥサ革命当時、革命に参加した人々が愛唱歌としたそうなので、かなり以前にリリースされた曲になります。自作自演はリコ・J・プノというミュージシャン。1953年生まれなので、もう60歳過ぎ。


明日があるさ(超意訳)

不幸だなんて言わないで
生きていれば明日ある
いつの日か、また輝ける
あなたが歩む道は、灯に照らされる

地上に生きる意味とは、喜びと悲しみ
待てば、必ず明日がある

生きていれば明日ある
全能の神が、あなたの旅路と共にある
心に怒りが宿っても
神に祈れば、そんな気持ちは消えてしまう


こういう歌詞なので、教会のミサで聖歌として歌われることも。そして、この歌をさらに有名にしたのが、2009〜2010年に放送された同名のテレビドラマ。「マイ・ブーカス・パ」は、子役のカイル・バリリによってカバーされて再びヒットしたそうです。

私とこの曲との出会いは、実はフィリピン在住だった日本人女性がきっかけでした。私の移住前に、SNSで知り合った当時30代だったAさん。マニラに駐在勤務されていた旦那さんと、お子さんもご一緒に、彼の地に住まわれていました。

ド田舎のシライ市とは違って、日本人が多いマニラ。かなり規模の大きな日本人会があり、Aさんは、その日本人会運営の日比共同アマチュア・コーラスグループのメンバー。リサイタルがあって、マイ・ブーカス・パを練習していると、楽譜のコピーを送ってもらったのが最初でした。

早速パソコンで打ち込み作業をやって、自分専用のカラオケを作成。家内から、この曲の来歴を教えてもらったのもその時です。さすがフィリピン第二の国家と言われるだけのことはあって、聴いてみても歌ってみても、なかなか良い。今でも、パーティのカラオケで時々歌いますが、とても盛り上がります。


ところでAさん。その後、日本人会での人間関係に悩まれたり、メイドさんとの付き合いに疲れたり、やりとりする内容から察するに、抑鬱状態になってしまわれたらしい。旦那さんの任期が終わったので、もうとっくに帰国されているはずなのですが、今は音信不通。移住前に、いろいろ貴重な情報をいただき、ぜひ一度お会いしたいと思っていたのですが、残念なことです。


2016年9月7日水曜日

予算がない?フィリピン陸運局


フィリピンの運転免許証

先日投稿した、一年過ぎても、更新した運転免許が交付されない件の続報です。フェイスブックを通じて、フィリピン在留邦人の方々から反響をいただき、これは一個人や西ネグロス地域だけの話ではなく、フィリピン全体の問題になっていることだと知りました。

ちょっと信じられないことに、フィリピンの新聞フィルスター(Philistar )の昨年10月の記事によると、原因は予算不足による運転免許カードのサプライヤー(オールカード・プラスティック・フィリピン社)ヘの対価不払いのため、供給をストップされたからなんだそうです。

何故そんなアホなことになってしまったのかは、イマイチよく分かりません。しかしそれでなくても、新大統領のドゥテルテから「我が国で最も腐敗している、三つの省庁の一つ」と名指しされているフィリピン陸運局(Land Transportation Office 通称LTO)。無能・怠慢・横領が招いた事態であることは、容易に想像がつきます。

それにしても、失態が明らかになってから、なお一年も遅れは解消されず。昨年、更新手続きの際に、別の窓口で「もう5ヶ月も待たされている」と文句を言っているフィリピン人男性がいたので、日本人だから、あるいは外国人だから特別に待たされているのではないとは思っていましたが、ここまでひどい状況だとは。

とは言うものの、全責任がLTO側にあることは明確なので、気分的には楽になりました。前にも書いたように、免許更新手続き手数料の領収書に、運転免許同様の効力があるので、実質的に被害はなし。まぁ身分証明書が必要な時に使えないのが不便というぐらいです。

LTOの件は、少々極端だとしても、フィリピンでは民間の小売業で、何のアナウンスもなしに特定の商品の供給が滞ることが、時々あります。例えば、ここ西ネグロスの州都周辺、バコロド・タリサイ・シライで、なぜか同時にスパゲティ用のホワイトソースが、スーパーの棚から一斉に消えたりする。それも単一のブランドだけでなく、商品カテゴリーが消滅したのかというほど。そして1ヶ月もすると、何もなかったかのように、再び元に戻る。これ、何なんでしょうね? 


2016年9月6日火曜日

フィリピン料理に挑戦1 アドボ

フィリピンに来たことがない人は、フィリピン料理と言われても想像しにくいでしょうね。よく訊かれるのが「フィリピン料理って辛くないですか?」という質問。 東南アジア諸国のタイやインドネシアなど、辛い料理、それもトムヤムクンに代表されるような、激辛料理好きの隣国が多いので、混同するんだと思います。

まぁ、探せばレストランなどで、スパイシーな料理もあるのですが、私の知る限り、一般家庭やホームパーティで出された食事で、「これは辛い!」というレベルの味は、経験したことがありません。唐辛子を入れる料理があっても、それは風味を出すためのもの。普通のフィリピン人は、食べずに残します。

では、フィリピンでポピュラーなのは、どんな料理でしょう?
ということで、これから時々、私が作ったことがあるフィリピン料理のレシピを紹介してみようと思います。ただし、自分で食べるために作っているので、ものによってはかなりアレンジしてます。もしフィリピン人に聞かせたら「それは、本物のフィリピン料理ではない」と怒られるかも知れません。

第一弾はアドボ。「Adobo」
簡単に言ってしまうと、食材を醤油とお酢で煮込めば、何でもアドボ。これは、フィリピン家庭料理の王様と呼んでもいいぐらい、どこへ行ってもよく出てきます。スーパーのお肉売り場では「アドボ・カット」の豚肉が普通に置いてあるぐらい。ポーク・アドボや、チキン・アドボが最も一般的ですが、魚やイカなどのシーフードでもOK。

アドボに限らず、フィリピン料理では、お酢を使うことが多い。やはり年中暑い気候なので、腐りにくくする工夫なんでしょう。


ポーク・アドボ 3〜4人前
材料:豚肉 500グラム(カレーなどに使うものが最適)
   にんにく 2〜3かけ(ちょっと多いかな?ぐらいが美味しい)
   玉ねぎ中 1個
   醤油 30ml
   お酢 30ml
   コショウ 適宜

煮物用の鍋、中華鍋、大きめのフライパンなど、蓋ができれば何でも可。

1. 豚肉は、2センチ角ぐらい、玉ねぎはスライス、にんにくは細かく刻む。
2. 刻んだ食材にコショウを加えて、油で炒める。私は、ごま油を使っています。
3. 豚肉の赤みが消えたら、醤油とお酢を加えて、蓋をして10〜15分、弱火で煮込む。
4. 水気が飛んで、酢醤油がコッテリしてきたら出来上がり。
  煮すぎると、醤油が焦げ付いてしまうので、ご注意。

と、これだけの調理です。実に簡単。
家で作る時は、ジャガイモ一個を1センチ角に刻んで、入れてます。もう少し「ご馳走感」を出したい時は、ゆで卵二個追加。さらに色どりが単調なので、盛り付ける時に、レタスを敷いたり、キュウリを添えたり。刻みネギを加えるのも良い。

実はこれだけではなく、日本から持ってきた味覇(ウェイパァ)も。これを入れると、味にコクが出て、フィリピン人もびっくりの仕上がりになります。

もし、フィリピンの友達がいるなら、家に招いて作ってあげてください。きっと喜ばれますよ。手間もかからないし、特別な食材も不要。一度お試しあれ。


2016年9月4日日曜日

いつまで待たせる運転免許更新


バコロドの運転免許更新センター

フィリピンで運転免許を取得して、もう三年以上が経ちます。日本の免許を持っているならば、それを書き換える形にできるので、改めて教習所に通ったり、試験を受ける必要はありません。手続き自体は、隣街のバコロドにある陸運局(Land Transportation Office)に書類を提出するだけなので、意外とシンプルでした。

ところが、待たされること三ヶ月。在マニラの日本大使館に照会して、日本での無犯罪記録を確認するとのこと。しかし、日本を出国する前に、わざわざ警察署に行って、英語で記載された無犯罪証明をもらってきて、ちゃんと提出しているのに、この二度手間は何なのか?

しかも、いざ交付となった時、バコロド陸運局のトップが、賄賂と引き換えでないと渡さないとゴネる。さすがにそこはキレて「大使館に友人がいるから、今すぐ電話をさせろ」とハッタリ効かせて、何とか無駄な出費無しで済ませました。

そんな後味の悪ぅ〜い経緯で手に入れた、フィリピンの運転免許。二年目の誕生日までに更新が必要で、ちょうど一年前の九月の初め頃に、今度はバコロドにあるショッピングモール「ロビンソンズ」の三階にある、運転免許更新センターに行ってきました。

ただの更新なのに、また三ヶ月かかると言われて、ちょっと憮然としながら手数料払って帰宅。新免許交付までの間は、手数料の領収書が免許と同じ効力を発揮するので、不便はないのですが、三ヶ月どころか半年経っても、交付されません。もちろんその間放置していたのではなく、ロビンソンズに行く機会がある度に、催促。しかし「マニラの事務所からの返事待ち」との一点張り。

そして先週、とうとう一年が経過してしまいました。フィリピンのお役所仕事のエエ加減ぶりには慣れっこの私でも、さすがにこれほど放ったらかしにされるとは、思わなかった。実は先月、新大統領ドゥテルテが開設した「ダイヤル8888」(あらゆる国民の不満を受付電話みたいなサービス)に、何度か電話してみましたが、いずれも機械音声対応が流れるだけで、待っても待っても繋がりません。

もうこうなったら、もう一度窓口に押しかけて「大統領に頼んで、責任者を射殺してもらうぞ〜」と脅しをかけてみようかと、半ば本気で考えています。取り敢えず、この週明けに、落とし前つけに行ってみますね。


運転免許のカバー
今は領収書しか入ってません


2016年9月3日土曜日

マルコス時代の清算 ドゥテルテの戦争

早いもので、もう九月に入って最初の週末です。フィリピンのドゥテルテ大統領が、六月末に就任してから、丸ニヶ月が経過しました。

フィリピンの大統領の話題が、就任後これだけ経ってからも、ほとんど毎日のように日本で報道されるなんて、少なくとも私の知る限り初めてのこと。こちらでも本当に連日、各局ゴールデンタイムに相当な時間を割いて、大統領の動向を伝えています。家内によると、フィリピン国内ですら、異例の注目ぶり。

麻薬関連で殺害された容疑者は、もう2000人を超えたそうで、昨日のダバオでのテロも相まって、まさに戦争状態。実際このシライ市内でも、違法ドラッグの売人が、自首したとの話が伝わっています。...と書くと、フィリピン全土で緊張状態なのかと思わるかも知れませんが、表立って私たちの住む周辺は、まったく以前と変わりない日常が続いています。

ドゥテルテが進める麻薬撲滅のための「超法規的殺人」。ダバオ市長当時から彼の常套手段で、以前からフィリピン内外の人権団体から非難の的。今ではアメリカや国連からも横槍が入っています。フィリピン国内でのテレビ報道でも、ドゥテルテに対して批判的な見方が目立ちますが、どうもこれは、選挙中から続く反ドゥテルテ・キャンペーンの一環ということらしい。

理由はシンプルで、以前の大統領は、マスコミにお金を払って好意的な報道をさせていたのを、ドゥテルテが断固支払いを拒否したから。しかしマスコミが何と言っても、依然として新大統領は、90パーセントという高い国民の支持率をキープしています。なぜドゥテルテが、ここまで極端な政策を取らなければならなかったのか。そしてなぜ、国民はそれを熱狂的に支持するのか。少々話は飛躍しますが、私は1965年から20年続いたマルコス大統領時代の、負の遺産の清算ではないかと感じています。

マルコス全盛期に、政府自体が汚職の温床と化し、その影響は地方にまで及びました。当時、一体どれだけの額の公金が横領されたのか、未だに正確な数字は分からないほど。同時代のシンガポールのリー・クワンユーや、1980〜90年代のマレーシアのマハティールが、似たような長期の独裁的な政権下で、徹底的に汚職を排除。海外からの投資の呼び込みに成功し、国を発展させたのとは対照的。

その後、1986年にエドゥサ革命によって、マルコスは失脚しアメリカに亡命。今思えば、この時こそフィリピンにとって千載一遇のチャンスだった。ところが、次の大統領に就任したコラソン・アキノは、汚職で肥え太った側、コファンコ一族の出身だったのが災いして、結局目立った改革は、できませんでした。

それからも、日和見的なリーダーが続いた結果が現在の状況。慢性的な停電は解消されず、マニラを始めとする各都市部では、自動車の代替旅客手段が貧弱か皆無で、交通渋滞はひどい。台風などによる自然災害には対策らしい対策も打てず、毎年洪水や土砂崩れの被害が多発。麻薬に関しては、今更言うまでもないでしょう。

政府や地方自治体が、何かしようとしても、政治家や役人が寄ってたかって「中間搾取」をしてしまうので、いくら税金をつぎ込んでも、砂漠に放水してるようなもの。それもこれも、マルコス時代に罹患した「病気」から回復していないから。

ここまで悪化してしまったら、もう内科的対処療法ではどうにもならず、ドゥテルテがやっているような、患部を丸ごと摘出してしまう大掛かりな外科手術しかない。当然血は流れるし、激しい痛みも伴います。実際に、麻薬取引が激減した影響で、一部では好景気が陰り始めたという話も聞きます。

登場が30年ほど遅かった気もするドゥテルテですが、どうか暗殺されたりせず、周囲の雑音に惑わされたりすることなく、任期を全うして、この国からマルコスの亡霊を追い払ってほしいものです。