2016年2月29日月曜日

南国映画館「アウトレイジ」



このブログで取り上げる初めての邦画は、北野武監督作品「アウトレイジ」と「アウトレイジ・ビヨンド」。比較的最近公開されたばかり(と言っても2010年、2012年)で、両方ともまだ私が日本にいた頃に公開。

結局劇場では見なかったものの、フィリピン移住後にネットでの評判を読み、にわかに見たくなりました。実はこの「アウトレイジ」だけでなく、私にとっての北野さんの映画は、監督作品も俳優としての出演作もいつも気になる存在。印象に残っているものだと「戦場のメリー・クリスマス」「その男、凶暴につき」「HANA-BI」「BROTHER」「座頭市」など。

しかし残念なことに、フィリピンではレンタルDVDもないし、買おうにも日本の映画は一部のアニメ以外は、まず店頭に並んでません。そこで、最近は私の「運び屋」と化しているお友達のYさんにお願いして、日本に一時帰国の時に買ってきてもらいました。

わざわざ日本から持ち帰ってもらったのに、家族で楽しむ...とはいかない内容なので、何となくリビングの本棚に飾ったまま半年ほど経過。

さて、昨年の後半ぐらいから、ネグロス島に英語留学で滞在する日本人の学生さんたちと仲良くなり、週末はいつもテニスしていると先日も投稿しました。朝、テニスして昼食は自宅で一緒に食べるというパターンが多く、その時に学生さんの一人が本棚から目ざとく「アウトレイジ」のパッケージを見つけ出しました。

北野監督にしては珍しく「エンターテイメントに徹した」という作品。やはり学生さんにも人気だったんですね。是非みんなで見ようとなった次第。去年の12月、一作目の「アウトレイジ」を鑑賞した時は、まだ先代メイドのアミーがいました。「日本のヤクザの映画で、残酷なシーンがいっぱいあるよ」と一応警告してアミーも一緒に。

前評判通りの北野式バイオレンス描写が満載の内容。第一回監督作品「その男、凶暴につき」の頃からお馴染みの、実に痛い映像の連続です。アミーは途中で逃げ出すかと思いきや、キャーキャー言いながら最後まで見てしまいました。

「ビヨンド」はかなり間を空けて、二週間ほど前。今度はたまたま遊びに来ていた、家内の親友の娘さん、日本オタクのゼニア嬢が同席。アニメはよく知ってるゼニアも、北野映画は初めてだった模様。英語字幕付きにして、かなり真剣に見てました。

それにしても、選りに選ってなぜこの映画をフィリピンで、しかも若いフィリピーナと一緒に見るか?と言われそうです。まぁ面白かったし、お客さんに楽しんでもらえたので良しとしましょう。でも次は、もうちょっと家族向けで、日本のイメージが良くなる映画を選んだ方がいいかも知れませんね。


2016年2月27日土曜日

ボール・ガールのヨージョー

しばらくのブランクを置いて、本格的にテニス再開してもうすぐ1年が経とうとしています。当初は日本のNGOマネージャーのYさんと二人だけだったのが、そのNGOの活動に参加する大学生のHさんとSさん。さらに学生つながりで、隣街バコロドにある聖ラサール大学で英語留学中のK君とR君にも参加いただき、にわかにテニス・サークルの如き活況を呈してきました。

それに加えてNGO関連の知り合い、ニュージーランド人のジャクソンと、アメリカ人のクリス。さらには時々、家内の親友の娘さんゼニア嬢まで加わり、ラケットが足りなくなるほど。場所は、以前にも投稿したように、自宅から車で15分ほどの距離にあるサトウキビ精製工場「フィリピン・ハワイアン会社」の敷地内の屋外コート2面。先日の「エドサ革命記念日」、日本人メンバー4名で連れ立って、雨上がりの朝コートへ着くと...。

テニスのコーチで、コート管理を兼務している(らしい)顔見知りのオジさんに「今日はグランドコンディションが悪いから夕方まで使用禁止」と言われてしまいました。今まで少し湿った状態でプレーしても、そんなこと言われたことなかったんですけどね。フィリピンの役所でよく出くわす「その日の気分で恣意的に運営」というやつらしい。

別に会社関係者でもなく、言わば好意で使わせてもらっている立場。反論して「それじゃ、二度と来るな」と言われたらおしまいなので、すごすごと引き下がりました。(このオジさんに、それを決める権限があるのかどうかも分かりませんが)

しかし、それほどの猛暑でもない2月のフィリピン。何もしないのはもったいない爽やかな天気。諦めきれずに、みんなで昼食を済ませた後、バコロド市内の有料テニスコートへ行ってみることにしました。

実は私が初めてネグロスに来た20年前から、そこにコートがあるのは知ってました。ただ自宅のシライからは車で30分以上と少し遠く、途中渋滞のひどいダウンタウンを通らないと行けないので、何となく今まで敬遠。

さて、やって来ました「センターコート・テニスクラブ」。こんなもっともらしい名前だったんですね。屋内と屋外1面づつで両方土のコート。あいにく屋内はスクールに使うので塞がっていましたが、屋外は大丈夫。

ハワイアンに比べると、さすがにお金を取るだけのことはあって、凸凹もないしラインも消えたりしてません。しかも料金にはボール・ボーイ(&ガール)3名の費用込み。これがフィリピンならではのサービスですね。


中学生と小学生ぐらいの男の子二人と、小学校低学年ぐらいの女の子が一人。時々、全然やる気がなく、途中でどこかに行ってしまうような子もいますが、この日私たちに付いてくれたのは、全員なかなか賢そうで健気なほどに動きも俊敏。審判もしてくれる上に、ヒッティング・パートナーができるほどのテニスの腕前。これはすごい。


特に女の子はボールを拾う仕草が可愛くて、たちまち「ヨージョー」というニックネームを命名。(Yさんが「幼女」と呼んだのがきっかけ)最初は呼ばれてもポカンとしてましたが、すぐに自分のことだと気付き、「ヨージョー、ボーラ・パリホッグ!」(ボールお願い)と言うとすぐにボールを投げてよこすようになりました。


あっという間に炎天下で3時間。ずっと付き合ってくれてチップが一人20ペソ(約50円)。コート使用料は1プレーヤーにつき95ペソ(約210円)。実にリーズナブル。朝、コートが使えずに一同落ち込んだものの、結果オーライでいいコートに巡り会えてラッキーな休日になりました。


日本語教室、閉鎖


とても残念ながら、年末に始めた日本語教室は3か月弱で閉鎖の憂き目に。楽しくやってたし、授業の内容もそんなに悪くはなかったと思うものの、やはり出席率がひどすぎでした。結局4名全員が揃ったのは、最初の2回ぐらい。

生徒の一人、大学院生ニニンが、土曜日に特別講座を受け持つことになり、他の三人も土曜日より日曜日がいいというので、曜日変更。ところが最初の日曜日、いきなりニニンと他1名が欠席。翌週はまたまたニニンを含めて3名欠席。その理由が、親戚の子供の面倒を見るためだとか、学校の行事があるからとか...。

言い訳が本当かどうか少々疑念も残りますが、本当だとしても、こんなに週末も忙しいのなら元々土日に日本語を習うこと自体が難しい。また、休むだけでなく宿題はやってくれないし、やる気があるのかどうかも分からなくなってきました。

無料のボランティアというのが、結果的には良くなかったのかも知れません。どうせ休んでもタダだし。将来日本で働きたいとか住みたいなどの、はっきりとした目的を持っているわけでもないので、動機が弱かったのもあるでしょう。

そういう状態なので、私自身ストレスを感じるように。欠席の連絡は、ほぼいつでも当日の直前。数日前には分かりそうな理由でもドタキャンしてくれるので、それなりに授業の準備をして掃除や片付けをして待っているのが、アホらしくなってきました。

ただ一人、毎回出席して宿題も真面目にやっていたのが、ちょっと不器用で日本オタクの青年、回教徒のサイイッド君。日本語教室閉鎖の連絡をフェイスブック上のグループページに投稿した時、「一人でも続けたい」と言ってくるかなと思いましたが、何の返事もなし。

むしろあまり熱心とは思えなかった女の子二人、ニニンとキムが英文と片言の日本語で、丁寧なおわびと感謝のメッセージを投稿してくれました。やっぱり続けようか...と一瞬思いましたが、また同じことの繰り返しになるんでしょうね。

フィリピンに移住した時に自分で決めたモットー。
「残りの人生、ストレス溜めることはもうしない」



2016年2月25日木曜日

妻は革命経験者


大統領就任時のコラソン・アキノ氏

今日2月25日は、30回目のエドサ革命記念日。フィリピン全土での祝日で、学校も会社もお休み。エドサ革命、一般には「ピープル・パワー革命」と呼ばれています。1986年、20年も独裁政権を維持していたマルコス大統領が、文字通りの市民100万人のデモを逃れてアメリカに亡命。1983年に暗殺されたマルコスの政敵ベニグノ・アキノ上院議員の意思を継いだ、妻コラソン・アキノ氏がこの2月25日、新大統領に就任しました。

「革命」と呼ばれるに十分過ぎるほど劇的な一連の政変ですが、実はほぼ無血で成し遂げられたエドサ革命。事の発端になったベニグノ・アキノ氏の暗殺を除くと、亡くなったのはデモ行進の真っ最中、マニラ湾に面するリサール公園に集まり、登った木から転落して事故死した人だけだったそうです。

軍や警察ですら、マルコス陣営を見限っていただけとも言えますが、やはりこれだけの改革を最小限の犠牲者数で、しかも一般市民の団結で勝ち取ったことは、フィリピンが他国に誇れる歴史だと思います。「外圧」がないとなかなか政権が変わらない、近代以降の日本史を省みるに、これは見習うべきでしょう。

1986年、私は社会人1年目。まだ自分がフィリピンに業務出張するなどとは夢にも思わず、毎日上司に怒鳴られる日々を過ごしていました。もちろんテレビのニュースでは、連日の報道が続いていたので、大筋の話は知ってたものの、マルコス亡命の後はすっかり革命騒ぎも忘却の彼方。

ところが当時デモに参加していた、二十歳のフィリピン大学の女子学生が、その12年後に私の妻に。結婚の後、この話を家内から聞いてから、エドサ革命記念日は私にとっても特別な日になりました。

ちょうどマルコスが大統領に選ばれた、1965年に生まれた家内。革命があるまで、ずっとマルコス独裁しか知らずに育ったわけです。私には想像するのも難しい戒厳令下の時代を生き、相当な息苦しさだったんでしょうね。日本に住んでいた頃、偶然NHKで放送されていた、アキノ氏の暗殺直前の最後のインタビュー映像を見て、涙を流したものです。



2016年2月24日水曜日

苦労人ネルジー


またまたメイドのネルジーのお話。着任後2週間以上が経過して、初日の緊張が嘘のように、すっかり我が家に馴染んだネルジー。昨夜は夕食後、家内と何やら楽しそうに話し込んでいました。声だけ聴いてるとまるで女子高生のようなトーンで、特に昨日はコロコロとよく笑う。

どんな面白い話題だったのか、今朝になって家内に聞いてみると、意外にもかなり大変な内容。ついこの間までメイドとして働いていた、隣町の州都バコロド市内のある家についてです。以前の雇い主家族は、旦那さんが警察官で奥さんは小学校の教師。そして9歳と3歳の子供の4人。

この奥さん、育児も家事もほとんど全部ネルジーに丸投げしてたらしい。特に下の子供は生まれた時からネルジーが「自分で育てた」んだとか。上の子の小学校への送り迎えもしていたそうですが、この子が実に乱暴で、時々ネルジーが泣いてしまうほどの暴力を振るわれる。そして家事以外にも夜は、奥さんの仕事の手伝い。

早朝から深夜まで、文字通りの酷使。もう一人メイドさんがいたけれど、この人は一日中ケータイいじりばかりの怠け者だったそうです。よく6年間も我慢したなぁ。

これで月給は3000ペソ(約8000円)。家事だけならば悪くない金額でも、子供二人の面倒に奥さんの仕事までとなると、ちょっと酷い。しかも最後は2か月も滞納してタダ働き。とうとう逃げ出したのが、我が家に来る二日前だったというわけです。

給料滞納と聞いていたし、きっと以前の労働環境が良くなくて、初日は硬くなっていたんだろうと想像はしてましたが、まさかこれほどとは思いませんでした。まるで「おしん」状態。こんな目に遭ったのなら、新しい雇い主の前で緊張するのも当然ですね。

若いのに人一倍の苦労をしてきたネルジー。今朝はめまいがすると言って、寝込んでしまいました。シライ市内にある、お姉さんの自宅でしばらく休むことに。朝8時ごろに迎えに来たお姉さんによると、今でも前の雇い主から「ネルジーを戻して」と連絡が来るそうです。そんなに頼りにしてたのなら、もっと大事にしたらんかい!


平和は戻った...か?


深夜の騒音事件の翌日、午前中は仕事の打ち合わせがあった家内。午後3時過ぎて、少し涼しくなった頃に、隣家に文句を言うためメイドのネルジーを引き連れて出かけました。私が同行すると、また一悶着ありそうだけど、一人で行くのは少し怖いとのこと。

これは隣家のオーナーに会えたとしても、話は長引きそうだと思ってたら、10分もしないうちに戻って来た家内とネルジー。結局、行って来たのは隣ではなく、宅地セント・フランシス・サブディビジョンの正面ゲートにある守衛室。そこでチーフ・セキュリティ・ガードのオッちゃんに相談したそうです。

フィリピンでは守衛さんと言っても、ひょっとすると警官よりも頼りになるかも知れません。特に、300ヘクタールを超えるセント・フランシスのような広大な場所のガードは、10名ほどのチームで行動し、銃の携帯も法的に許可されている。それに比較的小柄な人が多いフィリピンにあっては、体格のいい人が選ばれている。

チーフは、いつも敷地内を自転車で巡回している40代ぐらいの人。パッと見はゴツくて色が黒く、キングコングがガードの制服着ているような印象。でも住人への愛想は良くて、私と顔を合わせると、いつも笑いながら地元の言葉で挨拶してくれます。

このミスター・キングコング曰く、「奴らはゴロツキで、直接文句を言いに行ったら何をするか分かりません。警察の連絡先をお教えしますから、今度やかましくしたら警察に通報してください。その後私たちにも連絡をお願いします。」

最初に私が怒って家内に「警察に電話したる!」と言った時には「フィリピンでは警察は何もしてくれないよ」と返事してたくせに、やっぱりこの手の揉め事があったら、フィリピンでも警察なんですね。ある意味、揉め事を扱うことに関してはプロみたいなチーフ・セキュリティ・ガードの言葉には重みがあるようで、家内も少し安心したようです。

因みに家内が教えてもらったのは、シライ市警察署の番号。シライ市民でも知らない人もいるし、だいたいこの国では、警官の信頼度は甚だ低い。ただし「セント・フランシスのガードから教えてもらった」となると、対応が変わってくるらしい。結局誰が、どんなツテで連絡してきたが重要なんですね。

それはともかく隣の養鶏場、ガードに連絡が行ったのを知ってか知らずか、昨日の朝からはすっかり静か。表面的には平和が戻ったようです。しかしこうなると、夜中や早朝に騒いでもらって、どんなことになるのか見てみたい気もします。我ながら軽薄なことですね。


2016年2月23日火曜日

深夜の轟音、隣の鶏舎

こんなに頭に来たのは、去年の事故(乗用車運転中、輪タクにぶつけられた)以来だろうと思います。昨夜10時頃、私たち家族の住む閑静な住宅街、セント・フランシス・サブディビジョンに、時ならぬ轟音が響き渡りました。

自宅はこのサブ・ディビジョンの端っこにあって、隣家はこの宅地の外。ここが轟音の発生場所。2000平米はあろうかという大邸宅。その庭の大部分に芝生を敷き詰めて、数十羽の雄鶏を飼っています。ただの養鶏ではなくて、闘鶏の飼育場。

昼夜を問わず、雄鶏共が鬨の声を告げるので、うるさいと言えばうるさいのですが、これは言わば自然の音。別に気になる騒音ではありません。問題は、この鶏を世話している連中が流す音楽。BGMなどと呼べる代物ではなく、小型冷蔵庫ほどもあるスピーカーから、野外ディスコでもやっているような大音量。もはや音楽ではなくノイズそのものですね。

以前から昼間FMラジオを聴いたりしてましたが、ちょっとうるさいかな?という程度。たまにボリュームを上げすぎだと思ったら、同じ敷地で店を開いているサリサリストア(雑貨屋さん)の顔なじみのオバちゃん経由で、音量下げるように頼んでました。

一昨年までは、年に2〜3回ここで闘鶏が開催され、その時ばかりは、たくさんのギャンブル客が押し寄せ、深夜まで大変な状況になったものの、さすがのフィリピンでも住宅地での闘鶏は違法で、近隣の住民から苦情があったらしく、この頃はすっかり静かになっていました。

ところが今月に入った頃から、時々部屋の中にいてもびっくりするような音が。昼間、サリサリストアが開いている時間帯ならば、例によってオバちゃんにお願いするのですが、朝の5時とか深夜10時にやられると、穏便に済ます手立てがありません。

昨日は、昼間にも文句を言ったばかりなのに、夜同じように始まり、とうとう私の自制心も「ブチッ」と吹き飛んでしまいました。怒鳴っても両手を振っても全然気づかないので、手近にあった石を6、7個立て続けに...。

もちろん、ガラスを割ったり高価な闘鶏を傷つけたりしないよう、鶏舎のトタン屋根目掛けて投げるだけの冷静さは残っていました。しかし小石の割には派手な音。当然飼育係のオッさんと口論になるわ、大声を聞いて飛んできた家内は、涙ながらに割って入るわの大騒ぎ。飼育係は、文句を言いながらも音楽を止めたのでその場は何とか収まりましたが、私と家内の間には、何とも気まずい空気が残ってしまいました。

結局、下っ端を相手にしても仕方がないので、翌日に隣家のオーナーに直訴することに。私が行くとまた喧嘩になりそうだし言葉の問題もあるので、ここは家内に一任です。

聞くところによると、闘鶏は試合が近づくと大音量の音楽を聴かせて「コンディション調整」するのだとか。それが本当だとしても、何もわざわざ深夜や早朝の辺りが静まり返ったのを狙ってやらなくても良さそうなもの。さて、もうしばらくしたら、家内が交渉に行くはずですが、どうなることでしょう。


2階ベランダから見下ろす隣の鶏舎



2016年2月22日月曜日

国歌が大好きフィリピン人

日本で「君が代」のことを話し始めると、途端に政治のことやら歴史のことやらで、右からも左からも袋叩きになりそうな気配を感じます。正直に言って、私には極端な賛否を唱える人の感覚がイマイチよく分かりません。絶対に歌わないと頑張る人も、何が何でも歌わせようという人も。こういう国歌に対する屈折した感情を抱いている国民は、世界広しといえども、私の知る限り一部の日本人だけだと思います。

そこへ行くとフィリピン人の国歌への想いは、実にシンプルでストレート。スポーツの国際試合、特にフィリピンの国民的英雄マニー・パッキャオの試合前の国歌斉唱は、誰が歌ってどんな歌い方をしたかに国民の関心が集中します。それほどフィリピン人は自分たちの国歌が大好き。

国公立・私立に関係なく学校行事では先生も生徒も大声で歌うし、国内最大手のショッピングモールでは、毎朝開店前に国歌を館内放送。ゲートの前で待っているお客さんは、だいたい右手を胸に当てて直立不動です。だからと言ってピリピリした雰囲気は皆無で、みんなごく自然にそうしている。

笑ってしまったのは、去年の町内会の美人コンテストでも、開会式にはみんな起立して国歌斉唱していたこと。甚だ不謹慎ながら、アニメのテーマソングを歌うのが大好きな子供か? と思ってしまいました。

フィリピン国歌がここまで国民に愛されるのは、この歌が333年に及ぶスペイン支配から脱して、1898年の独立とほぼ同時に制定されたものだからでしょう。最初はスペイン語の歌詞だったそうですが、その後タガログ語に翻訳され現在に至っています。私は聴いたことがありませんが、英語版もあるそうですね。

歌詞の内容は、まるで恋人を賛美するような直球ど真ん中の祖国賛歌。ここまで堂々と祖国愛を歌い上げることができるフィリピン人が、羨ましくなるほどです。多分、日本以外の大抵の国歌は、そういうものなんでしょうけど。


ジェシカ・サンチェスによるフィリピン国歌
(2014年パッキャオvsブラッドリー戦)



2016年2月18日木曜日

働き者ネルジーの1日


我が家のメイド、ネルジーの朝は早い。さすがのフィリピンでもまだ暗い午前5時から起きだして、まずはリビングやキッチンの掃き掃除。毎日掃除していても、夜の間に小さな虫の死骸やらヤモリの糞やらで、意外と汚れてます。

家族が朝ごはんを用意し始める6時過ぎになると、今度は庭のお手入れ。枯葉集めや芝刈りを2時間ぐらいぶっ通し。まだ涼しい時間帯なのに、8時頃にはもう汗だく。私が息子を学校に送って行った後、少し遅めの朝食を済ませたのを見計らって、ようやくネルジーの朝ごはん。だいたいいつもトースト2枚です。食後は一気に皿洗い。

それから午までは、最寄りの市場に買い物行ったり、水周りの掃除や洗濯。ちょっと休憩したらいいのにと思いますが、「暇にしてると、何だか寂しくなってしまう」とのこと。特に仕事を言いつけたりしなくても、自分で仕事を見つけ出しては、次々とこなしていきます。今朝は、靴箱の大掃除してましたね。

自発的に働くという点では、前のメイドさんもある程度はやってくれましたが、ネルジーほど徹底的ではなかった。とにかく休むのが罪悪だと言うような働き方。

昼食の後片付けを終えると、1日一回のシャワータイム。この時だけは、ゆっくりリラックスしているようで、小一時間はバス・ルームに篭ります。それが済むと少しお昼寝したり、ケータイで音楽聴いたり。フィリピーナにしては珍しく、ちょっと大人っぽいジャズ風の曲が流れてきます。最初はまさかネルジーだとは思わず、どこから聴こえてくるのかと思いました。

初代メイドのカトリーナなどは、時々夕方まで寝てましたね。ネルジーは一番暑い時間帯だけは休憩するものの、遅くても3時頃には活動再開。2階のベランダの掃除やら、洗濯物の取り入れやらで、そのまま夕食の準備に突入です。

料理はできないと言ってたネルジー。ところが包丁は中々器用に使います。野菜は一度サンプルを見せたら、その通りのサイズに切ってくれる。お好み焼きの用キャベツの千切りも、すぐにマスター。手先の細かさだけではなく気遣いも細かくて、我が家のメイド史上初めて、玄関で脱いだサンダルを(言わなくても)ちゃんと揃えるという快挙を成し遂げました。

夕食の後片付けが済んで午後9時過ぎには、早々と消灯。実に健康的な1日。メイドには厳しい家内も、ネルジーの働きぶりには感心することしきり。まだ働き始めて10日目ですが、給料を少し多めにしようかと話してます。


力持ちだけど、実はとても繊細な乙女ネルジー

2016年2月16日火曜日

キンドルな日々

日本にいる時から、使おうかどうか迷っていた電子書籍。実は、もう10年以上も前に、ほんの少しだけ電子書籍端末の商品開発に関わったことがありました。学生時代から読書大好きで、数千冊の蔵書をフィリピンまで持ってきてしまったほどの本の虫の私。まさにこれぞ天職とばかりに熱心に取り組んだものです。

ところが、決定権を持つ管理職の方とは、最初から最後まで話が噛み合いませんでした。純粋に読書を楽しみたいと思う人にとっては、余計なお世話の機能ばかりをテンコ盛りにしようとするくせに、インターネット接続は面倒だからしたくない。

今、普及している書籍端末を見れば、この商品企画がどうなったかは想像がつくと思います。それなりに時代を先取りしてたのに、もったいないことしたなぁ。そんな苦い経験もあって、キンドルが出た時も飛びつかずに様子見を決め込み。その後、フィリピン移住のドタバタですっかり忘れて月日は流れ....。

移住後3年近く経過した昨年末。ふとしたきっかけで、新刊の日本のコミックを読みたくなりました。時々一時帰国する、日本人の友達にお願いする手もありますが、10巻一気にというのは、さすがに荷物になりすぎ。それならば、電子書籍しかありませんね。

私の知る限り、ここネグロス島で電子書籍端末を売っている電気店は皆無。また運送関連のインフラが貧弱で信頼性が限りなく低いので、アマゾンなどのネット購入・宅配というビジネス自体が、まだ成り立っていません。でも手元にはiPhoneもiPadもある。

早速無料のキンドル・アプリをiPhoneとiPadダウンロードして、コミックをネット購入...しようと思いましたが、思ったより高かったので、以前通読したことがある池波正太郎さんの「仕掛人梅安シリーズ・全7巻合本」をポチッ。読み始めこそ若干の違和感があったものの、読書体験としては紙の本と何ら変わらず、あっという間に読了してしまいました。

フィリピン移住に際して、新しい日本の書籍に接する機会は、ずいぶん減るだろうと覚悟してたのが、まったくの杞憂。同じように音楽はiTunesでいつでも買えるし、映画はApple TV。ドラマはYouTube。いい時代になりましたね。本当に海外に住んでるのを忘れてしまいそうです。でも気をつけないと、つい無駄遣いをしそう。




2016年2月15日月曜日

バレンタインには赤を着よう


聖バレンタイン・ディと言えば、フィリピンでも夫婦や恋人同士で贈り物の交換をしますが、女性から男性への一方通行ではありません。それだけではなく、親子や兄弟姉妹の家族や、親しい人同士の愛情も表現する日です。なぜか女から男へ、チョコレート(だけ)を贈る日になってしまった日本のバレンタイン・ディ。私の知る限りそんな習慣は、日本以外に聞いたことがないですね。

かなり内容には違いはあるものの、ここネグロス島でも盛り上がったバレンタイン・ディ。今年は2月14日が日曜日だったので、学校での行事は金曜日。シライ市内の公立校では、生徒がいつもの制服ではなく、女の子も男の子もみんな赤い私服で登校。


もともとフィリピンでは、赤い服は求愛の意味があると何かで読んだ記憶があります。服だけではなく、贈り物は花もお菓子も全部赤。朝の登校時には、子供達に買ってもらうために「I love you」と印刷した赤い風船や、赤いパッケージのキャンディに赤い花束などを並べた露天商が、校門の周囲に店を広げていました。

息子が通う私立校では、赤い服は着なかったものの土曜日の夕方からバレンタイン・パーティが開催。学校だけでなく、町中のあちこちが夜を徹しての野外ディスコ状態。まぁ、これは2月14日に限ったことではなく、何かっちゅうと踊って騒ぐフィリピン人の恒例行事ですが...。

さて当日の日曜日。たまたま息子のパスポート更新用写真を撮るために、隣街のバコロドにあるショッピングモールに家族でお出かけ。1週間前の春節の飾り付けと重複してものすごく派手なデコレーション。どちらの行事もテーマカラーが赤なので、全館、目も眩むような真っ赤っか状態。それに加えて、赤い服のお客さんもたくさん。真っ赤なタンクトップに赤いミニスカートの女性がいたりして、ちょっとドキドキしてしまいました。


さて私はと言えば、近所のスーパーで買った少しお高いチョレートに赤いリボンを付けて、家内にプレゼントしました。この頃は、バレンタインにチョコというのも流行ってきたようです。




まさかのフィリピン人材不足


多分公式な数字では、フィリピンの失業率はまだまだ高いままなのかも知れません。しかし、ことメイドさんに関する限り、実感としてかなりの人材不足になっているのでは?という気がします。

10年ほど前ならば若くて働き者のメイドさんは、募集をかければすぐに見つかったのが、最近では中々難しい。特に、辞める時は突然来なくなってしまうケースが多く、余計に手間がかかる。私も年初の1か月ほど、メイドさん探しをしていたので、これは痛感するところ。

マニラ在住の日本人の友人によると、昔は4名もメイドさんがいたそうです。それが今では1名の確保もままならない。また、ネグロス島に住むフィリピン人の知人からも、メイドさんが見つからなくて困っているという話は、よく耳にします。

やはりこれは、このところの好景気の影響がジワジワと効いてきているからでしょう。今でも経済的な理由で小学校までしか通えず、13、4歳で(あるいはもっと若くから)働かざるを得ない子供もいますが、昔に比べると高校への進学率はかなり上がっているらしい。実際シライ市内のハイスクールを見ても、登下校時や昼休みの時間帯は、制服姿で学校周辺は溢れかえっています。

フィリピンで高卒ということは、英語の日常会話にはまず困らないレベル。そうなると、肉体労働やハウスメイドよりも高額な報酬の仕事ができる可能性がぐんと上がります。海外への出稼ぎも視野に入るし、特にこの2〜3年は、ネグロス島内でもやや過剰なぐらい、新しいお店やレストランが続々とオープンしているので、その従業員だけでも相当な数の雇用。

それならば安月給で、雇い主によっては劣悪な労働環境にもなりかねないメイド業は、敬遠されるでしょうね。おそらく次には、メイドさんの給料が高騰し始めるでしょう。高くなったと言っても、いきなり日本並みになることはないでしょうけど、何をするにしても、一番安いのが人件費...という感覚は、徐々に変えていかないといけないようです。


2016年2月11日木曜日

もったいないぞ NHK

ここ何年か、あまりいい話題がないNHK(日本放送協会)さん。ヤラセ報道や受信料徴収の問題、現政権との癒着疑惑などなど...。私に真偽のほどを確かめる術はないので、無責任な批判はできませんが、日本語のネット世界を眺めている限り、好意的な情報があまりない印象は否めませんね。

ここフィリピンでは「NHKワールド」(英語)が、ケーブルテレビ契約をすると漏れなく付いてきます。でも正直言って一般のフィリピン人が見て、さほど面白いとは思えない番組ばかり。ニュースに関しても、日本で大事件や災害があった時を除けば、地元のタガログ語放送やCNN、BBCなどの英語のニュースの方が時間もゆったりで、内容も充実した報道があります。唯一興味をそそられそうなのは、鴻上尚史さんが司会を務める「Cool Japan 発掘! かっこいいニッポン」ぐらい。

数年前までは、フィリピンでも日本での衛星放送をベースとした日本語放送が見られたのですが、フィリピン側の契約不履行を理由に、ケーブルテレビのチャンネルリストからは消えてしまいました。(今でも個別契約してパラボラアンテナ立てれば視聴可能)

と、ネガティブなことばかり書いてしまいましたが、実は私、日本にいた頃はNHKとWOWOWしか見ないという大のNHKファンでした。実家を出てからの約20年、一度の滞納もなく受信料を払い続けてましたし、もしフィリピンでも同じ内容を見られるのなら、躊躇なく今でも払い続けたと思うほど。

一番のお気に入りは「NHKスペシャル」に代表されるドキュメンタリー番組。多少の当たり外れはありますが、タイムリーな話題と実に綿密な取材に裏打ちされた説得力ある内容。加えて最新技術の視覚効果や旬なアーティストによる音楽。もうこれぞ情報・報道番組の王道ですね。

なぜこれほど素晴らしいコンテンツを、海外に向けてもっと積極的に発信しないのか、不思議でしょうがない。版権の問題や英語版作成の費用など、できない・やらない理由はいっぱいあるんでしょうが、国民から一律に受信料を徴収して番組を制作している責任からして、これほど日本の「今」を理性的に捉えている番組を、ほとんど日本国内だけで消費してしまうのは、国家的損失だと思います。

ディスカバリー・チャンネル、ナショナル・ジオグラフィック、ヒストリー・チャンネルなどの英語による著名なドキュメンタリー放送局の番組に比べてもまったく遜色がないのに、実にもったいない。例えば隣国との間でのいろんな問題も、きちんとデータや記録に基づいた番組を見てもらうことで、少なくとも誤解や曲解はかなり減るんじゃないでしょうか?




怪力ネルジー

ネルジーが我が家の住込みメイドになって、早や三日。初日は緊張のあまりガチガチになってほとんど口も利けなけず、これはどうなることかと心配してました。
23歳にもなって人見知りし過ぎなのは、ひょっとして軽度の対人恐怖症なのかもと思ってみたり。もちろん私は専門家ではないので分かりませんが、何れにしてもあまりコミュニケーションが得意な方ではないのでしょう。

地元の方言イロンゴがイマイチ喋れないとお姉さんが言ってたので、家内との意思疎通に一抹の不安があったものの、少なくとも私が見る範囲では、まったく問題なく会話が成立しています。時折笑いもあって、家内に確認してみても「大丈夫」とのこと。

さらに不安だった英語に関しても、私の言うことは理解してくれているようです。ただ、英語に対してイロンゴで返事するので、ちょっと戸惑うことも。とは言っても「はい」「いいえ」ぐらいはさすがに私も聞き取れるので、今のところはこちらも「大丈夫」。

今朝あたりから、ようやく打ち解けた雰囲気になってきて、今日は食事の用意を手伝ってもらいながら少し話をしました。18歳からメイドをやっていて、もう6年目なんだとか。掃除や洗濯、芝生の手入れ...。道理で何を言いつけても手早く片付けてしまうわけだ。初代のカトリーナや二代目のアミーとは年季の入り方が違う。

そして、すごいのはその腕力。背丈は150センチそこそこなのに、二の腕は私よりも太い。あんまり見事なので、ちょっと触らせてもらったら紛れもなく筋肉。足腰もがっちりしてるし、相撲取らせたら強そうです。実際、飲料水用のタンクを持てるかと訊いたら、5ガロン入りの一つ20キロ以上の重さのものを両手に二つ、軽々と持ち上げて見せました。完全に男並みですね。

まだ若いしこれだけの体格なので、どれだけ食べるかと思いきや、驚くほどの少食。初日の夕飯をほとんど食べなかったのは、緊張のせいかと思ってたら、毎食こうなんだそうです。しかも肉類は食べられない。魚介類や卵はOKなので、厳密な意味でのベジタリアンではありませんが、それにしてもちょっとしか食べない。抜群の燃費の良さ。

考えてみると、食費はかからず、無駄口も叩かず、仕事は早くて力持ちとくれば、住み込みのメイドとしては理想的な人物と言えるかも知れません。願わくば、以前の二人のように半年やそこらで辞めないでほしいものです。


ネルジーが肩に担いで2階まで運んでくれた5ガロンの水タンク


2016年2月9日火曜日

三代目メイドさん着任


先代メイドのアミーが突然いなくなってから1ヶ月。移住直後からの友達クリスティンからの紹介で、旧正月の昨日、新しいメイドさんが我が家にやってきました。

紹介者のクリスティン(愛称ティンティン)は、シライ市内で活動する日本の某NGOで現地スタッフとして働く女性。愛嬌満点できれいな英語を話し、何よりも実務能力抜群。私が出会った中でも、時間をきちんと守り日本的な細かい気遣いができる数少ないフィリピン人の一人。一時期、私のイロンゴ(ネグロス島の地方言語)の先生をしてもらってたことも。

こういう人の紹介なので、間違えても手癖が悪かったり、怠け者だったりはしないだろうと思ってました。実際ティンティンは「信頼できる人を探してます」とのこと。

そのティンティンとお姉さんに伴われてやってきたのは、23歳のネルジー。背はそれほど高くないけど、がっちりした体格。何となくラグビーでもやってそうなほど、胸板が厚くて腕っ節も太い。ところがそんな体付きと相反するように、気の毒なほどの緊張状態。

リビングで私と家内で面接みたいに話をしましたが、喋るのはお姉さんばかり。ネルジーはよほど顔見知りをする性格らしく、まともにこちらの顔も見られない。しかも、生まれが島の反対側の東ネグロスで、母語がセブアーノ。イロンゴはあまり分からない。高校は出てるので英語は喋るそうですが、コミュニケーションに不安が残ります。

30分ほどの話し合いの後、月給はアミーの時と同じ2500ペソで、早速その夜から住込みで働くことになりました。私の懸念とは関係なく決定権は家内にあります。家内がOKといえばそれでOK。

ネルジーは二日前まで隣街の州都バコロドでメイドをしてたそうです。その雇い主がひどくて給料の滞納が続き、堪りかねて辞めてしまった。なるほど、前の職場がたいへんだったので、警戒心もあったんでしょうね。

夕食の時に判明したのは、ネルジーがベジタリアンだったこと。久しぶりにコロッケを作ったのですが、全然食べられない。豚も鶏もダメ。卵スープをほんの少し口にしただけで、ごちそうさま。ネルジーは料理ができないので、これから私が献立に頭を悩ませそうです。

そして一夜明けた今朝。私の心配とは裏腹に、昨夜とはずいぶん違って機嫌よく窓拭き掃除してました。目が合うと、こちらを見て笑顔で挨拶。家内とは普通に会話をしてるので大丈夫みたい。トーストの朝食も済ませて、朝市での買い物もこなしました。取り敢えずは一安心というところでしょうか?


2016年2月4日木曜日

フィリピン揚げ物事情

フィリピン人は揚げ物が大好き...と断言してもいいと思うこの頃。パーティでフライドチキンやフライドポテトを用意したら、まず最初になくなるし、学校の帰り道では小学生から高校生まで、串刺し揚げバナナの「バナナ・キュー」を片手にしてる子が多い。
店先や屋台などでは、オッちゃんが大きな中華鍋でジュージュー揚げ物を作っているのは、かなり頻繁に見かけますが。さて、一般の家庭ではどうなんでしょうか?

日本で、育ち盛りのお子さんがいる家で、揚げ物をまったく調理しないという方が少数派かも? 私が子供の頃は、私を含めて3人男ばかりの兄弟だったこともあり、よく母親は天ぷらやトンカツなど揚げてました。豚肉1キロ揚げても、一回の食事でなくなるとブツブツ言ってましたね。揚げる手間もあったでしょうが、財布的にかなりの負担だったんだろうと思います。

さて、フィリピンでは友達や親戚の家でご飯を食べさせてもらう機会も多いけれど、家で揚げ物しているのって本当に見た記憶がありません。まぁこれは偶然そうだっただけで、スーパーでは唐揚げ粉(味の素ゼネラルフーズの製品も出回ってます)や、パン粉(これはなぜか日本製でなくても「パン粉」と書いたパッケージ)を普通に売っている。

こういう食材を置いているのは、シライ市内だと去年オープンしたセイブ・モアという、かなり高級志向のスーパーぐらいなので、やはり家庭料理としては少し贅沢な部類に入るのかも知れません。因みにこのセイブ・モアの肉売り場には「Tonkatsu」と称して、パン粉の衣がついた、そのまま揚げるだけでトンカツになるという食材も売ってます。州都バコロドまで行けば日本の天ぷら粉まである。

初めて家でコロッケ作ってお客さんに振る舞った時は、実に喜ばれました。エビフライもそうだし、天ぷらの人気は相当なものです。でも天ぷらをカラっと揚げるのは、慣れないと難しいし、トンカツの衣作りは面倒ですよね。


作るのはともかく、後片付けも面倒な揚げ物。日本ではお馴染みの油濾し紙が、こちらではどうも売ってないようです。濾し紙なしでは、どうしても2回3回と油を使うと酸化がひどくて、揚げ物の風味がガタ落ち。ペーパータオルやコーヒーフィルターでの代用を試みましたが全然ダメ。ついに堪りかねて、日本に一時帰国した友人に買ってきてもらいました。


やっぱり日本製はすごいですね。こんなこと移住前は想像もしなかったですが、1回揚げ物に使った油をこんなにキレイにするのは、実はたいへんなこと。あまりの効果で、しばらく濾した油に見とれてしまいました。