2015年11月26日木曜日

女子高生三人組

この1年近くテニスに付き合ってくれる日本人の友達ができて、久しぶりにコンスタントに週末テニスを楽しんでいます。私のテニス歴はもう30年近く。と言ってもずっと継続していたわけではなく、しばらく続けては2〜3年のブランクが空き、また思い出したように始める、の繰り返しだったので、初中級ぐらいで上達が止まったまま。

そんな腕前でも、一緒にテニスをしようという30歳のYさんが全くの初心者で、仕方なくコーチまがいのことをしています。自分でもロクにできていないのに「腕だけで振るんやなくて腰の回転で打て」とか「インパクトの瞬間を見ろ」とか、我ながら偉そうなことです。

ところが元々格闘技をやっていたというYさん、やはり筋が良かったのか1ヶ月かそこらでストロークは普通に打てるようになり、時々触ることもできない強打を返されるようになりました。しかも二人だけなので、シングルスしかできません。30歳と53歳の親子の年齢差で炎天下、体力勝負では勝ち目なし。この頃はガチでワンセットやって負けたりしてます。

最近ではこのYさんに加えてもっと若い大学生のHさんが参加。この人もサッカーをやっていたというスポーツマンで、まだ4回ぐらいしかコートに出たことないのに、もう何とか打ち合いができるようになってきました。

いつも使っているコートは、ハワイアン・フィリピン・カンパニーというサトウキビ精製工場会社の敷地にある社員の娯楽施設。ところが工場が休みの土日は誰でも使えるようで、全く部外者の私たちも無料で入れてもらってます。年中真夏の真昼間にテニスする酔狂なのは日本人ぐらいだろうと思っていたら、先月から新たなメンバー参入。

高校生が4人(女の3子人と男の子1人)とそのコーチだそうで、隣街タリサイの高校のテニス部か同好会のメンバーだそうです。みんな若くて歳を聞いたら14歳。日本ならばまだ中学生ですが、こちらでは中学という分け方はなくて、小学校の上は高校(ハイスクール)が6年生まで。

14歳と言ってもさすがのフィリピーナ。アスリートらしく手足が長くて抜群のプロポーションです。男の子はまるっきりの子供ですけどね。ただ残念ながらテニスのレベルは初級ぐらいでしょうか。この子たちのコーチが、私たちがちょうどいい練習相手だと思ったのか、いきなり「チャレンジしてもいいですか?」。それ以来、毎回練習試合をしています。


嬉しいのは、久しぶりにダブルスのゲームができること。シングルスだとせいぜい1セットもやるとバテてしまいますが、ダブルスならば3セットぐらいは大丈夫。時折会話もできるし、何より女の子とテニスするのは気分が潤いますね。

さて一汗かいて昼前にはみんな帰宅。コーチも学生もみんなバイクに乗って帰ります。何と女の子ばかりがノーヘルで3人乗り。スタイルがいいので、すごく様になってるのはいいけれど、それってフィリピンでも違法ちゃうか?


 

2015年11月25日水曜日

もう日本には戻れない 携帯編

ガラパゴス携帯「ガラケー」の名称で揶揄される日本国内向けの携帯端末。一般的にはタッチパネル型のスマホは含まれていないので、もっぱらひと昔前の10キー付きで二つ折りやスライド式のスタイルを指すようです。しかしフィリピンでの携帯サービスに慣れると、日本の携帯電話のサービスそのものが世界的には独特で孤立したガラパゴスに思えます。

昔からそうで、今もドコモやau、ソフトバンクのサイトを見ても皆目理解できないのが料金体系。まず端末が「¥0」(無料)というのが訳分かりません。しかもナンバーポータビリティと称して他社を解約して新規契約する方が継続するより安くなるという不思議。月々の料金には端末代が上乗せされているので、純粋な通信料金が一体いくらなのか実に分かりにくい。

移住前は電気メーカー勤務で、ごく短い期間ながら携帯端末の開発に関わったことがあるのに、あの料金体系のカラクリは謎のままでした。だいたいお客様のために作っているはずの携帯端末が、通信業者が儲けやすいように製品仕様を決めるのが腑に落ちません。

携帯端末ほど個人が愛着を感じる電気製品も少ないでしょう。お客様によっては肌身はなざず持ち歩くもので、特に若い世代にとってはファッションアイテムでもあり、恋人や友達とのコミュニケーションを取るための大事な道具。

そんな自分の分身みたいな存在なのに、まだ壊れていなくても通信業者を変えると強制的に使用不能にされてしまいます。資源を大切にだとか地球に優しくというキャッチコピーが溢れている世の中で、時代の先端を走っている多くの企業がこんな矛盾したことしている。しかも誰でも分かっていることなのに、誰も積極的に変えようとしない、できないのが日本の抱えている病巣を象徴しています。

少し前にフィリピンの携帯事情について書きました。こちらでの端末購入は通信業者は全く介入しません。最近はどんな小さな街でも中国製の格安端末売ってるし、メーカーの専門店に行けば、それなりに高級機種もあります。アップル・ストア(ネグロスには直営店はなく「i Store」の名称)も車で30分以内の範囲で2軒。

「自分の端末」をまず買って、どの通信業者にするかは、一つ100円ほどのSIMカードを購入する時に決めます。身分証明も契約書も何にも要りません。実にシンプル。一つのSIMと一つの番号がセットになっているので、電話を変えたければSIMを入れ替えるだけ。

サービスは月2千円程度からの定額制もありますが、必要に応じてプリペイド式に追加で払っていくのが一般的。ほとんどの人がショートメッセージと通話しか使わないので、金額は知れています。ネットに繋ぎたければ、ショッピングモールや飲食店のフリーWiFi使えばいい。

もう、あの日本の摩訶不思議で恐ろしく高額な通信料が必要な世界には、とても戻る気になりません。


2015年11月24日火曜日

あっという間に熱帯雨林

私たちの住むフィリピン・ネグロス島のシライの街を歩いていると、たまに市の紋章が描かれたハシゴ車みたいな高所作業用の車を見かけます。最初は消防車かと思いましたが、これは樹木の剪定や伐採のためのもの。

街路樹やサトウキビ畑と市街地の境界に植わった並木を切り倒して回ってます。依頼があれば私有地内の木もバッサバッサやってる。なんともったいなく無残なことか...と感じるのはまだ熱帯慣れしてない証拠。

年中雨が多く、20度以下には絶対下がらない気候だとどうなるかというと、草だろうか木だろうが猛烈な勢いで育ちます。わかりやすいのが去年建てた自宅の庭。別に何も植えたつもりはないのに、いつの間にやら何本も木が生えてきました。そのうち2本はチェリーだそうで、1年もしないうちに2階の屋根より高く。

小さな白い花が咲くので、半年ほど前の投稿で花見でもしようかと気楽なことを書いてましたが、台風が近づいたりすると幹が風に吹かれて軒にガンガンぶつかります。これは恐ろしい。慌てて家内やメイドさんに手伝ってもらって、危なそうなのを数本、大汗かいて枝打ちしました。もうちょっと小さいうちにやっとけば良かった。


こういう目に会うと、何故わざわざ税金使って市内の木を伐ってるのかよ〜く理解できます。2年前のスーパー台風ヨランダの時は、大木が根こそぎぶっ倒れてブロック塀を倒壊させたのを見ました。熱帯で育った樹木というのは急激に大きくなるものの、その分かなり柔らかい。ちょっと強い風が吹くと簡単に大きな枝が折れたり、木そのものが倒れてしまいます。

日本でも梅雨時や夏場など、空き地がすぐに草ボウボウ状態というのはありますが、フィリピンでは草どころか、1年も経てば熱帯雨林に戻ってしまう勢い。空き地だけでなく、舗装道路にまで蔦が這ってきてどこが道なのか分からなくなるほど。

子供の頃から「緑を大切に」と散々教え込まれてきましたが、フィリピンでは緑は守るべきものというより、場合によっては駆除の対象と言ってもいいほど厄介なものだったりします。


時々落下したヤシの実で怪我人も出ます


自宅ベランダからの風景は緑一色


2015年11月21日土曜日

パリの思い出

前回の投稿から1週間以上も間が空いてしまいました。去る11月13日夜(現地時間)に起こった無差別テロの報道に接してから、どうにもブログを更新する気力が湧かず、結果として放置状態になってしまいました。

いつも何本分かのネタは用意しているのですが、こういう時におチャラけた内容の文章を書く気にはならず、かと言ってあまりシリアスなものを考える集中力もなく...。ブログ再開は、何もなかったようにテロと無関係な投稿にしようかとも思ったものの、やはり区切りをつける意味で、私的なパリの思い出について記します。

私が初めて海外旅行したのは30年前のバブル真っ只中。ヨーロッパ4か国の展示会視察の出張でした。今がフィリピン在住なので、最近知り合いになった人には意外に思われることが多いですが、ロンドン・パリ・ミラノ・ハンブルグを約10日間かけて廻ったのが最初の外国。大学では第二外国語でフランス語を選択。(ほぼ完全に忘れましたけど)

それ以降、仕事ばかりで数年おきにパリを訪問し、一番最後が5年前の2010年5月。電気製品のメーカー勤務だったので、合計4回も行ったのに有名な観光地にはほとんど縁がなく、電気店とオフィスばかり。今にして思えば残念なことをしましたね。

それでも、現地スタッフと一緒に仕事ができたのは、楽しい思い出です。今回のテロの第一報を見た時も、最初に頭をよぎったのは彼らの顔。何人かいる知り合いの中でも特に印象に残っているのは二人の女性で、なぜか両方フランス人ではありません。

一人は現地法人の社員さんで、生まれはボスニア。戦火の中で子供時代を過ごしたらしく、あまり詳しい話は聞けませんでしたが、尋常ではない苦労をされたようです。私の退職後は連絡先が分からず、一体どうしていることでしょう。無事を祈らずにはいられません。

もう一人はかつての同僚で、旧東ドイツのドレスデン出身。フランス人男性と結婚されてパリ在住。つい最近、めでたく赤ちゃんが生まれました。こちらはテロ数日後に家族全員元気との知らせがあり、ほっとしました。

日本に住んでいる時は、テロなど遠い外国の話だと何の根拠もなく思い込んでいましたが、地下鉄サリン事件ほど組織だった犯罪ではなくても、ここ最近は無差別殺人が起こっていますね。私が住むフィリピンは、爆弾テロや外国人を標的にした殺人・誘拐事件が頻発している国なので、ことさらテロが他人事ではありません。


テロの翌朝、フィリピンのカトリック教会でも
犠牲者のための祈りが捧げられました。



2015年11月13日金曜日

懐かしの夜店 フィリピンのフィエスタ

もう先週のことになってしまいましたが、前回に続いてフィエスタの話題です。フィリピンではクリスマスやイースター、万聖節...。カトリックの行事は、なんでもお祭り騒ぎ。それ以外にも独立記念日やらシライの市政記念、学校の創立記念。さらには選挙に誰かの誕生日と、思いつく限りのお祝い事は飲んで歌って踊って。つくづく幸せな国民性です。

ここシライ市では、そんなフィエスタに欠かせないのが移動遊園地とそれに付随する出店。だいたいフィリピンのどの街でもそうですが、中心に教会があってその近くは市民広場があります。これは旧宗主国スペインの影響なんでしょうね。


シライ市最大の教会「サンディエゴ・カセドラル」の前にも通称「プラザ」と呼ばれる大広場があって、フィエスタの度に観覧車・メリーゴーランドなどの移動遊園地がやってきます。移住してもう3年目で、そのうち行ってみようと思いつつ何となく機会を逸していましたが、今年のシンコ・デ・ノベンブレ(ネグロスの独立記念日)は、たまたま家内が忙しかったのと、メイドのアミーの里帰りが重なって、私が10歳の息子を連れて行くことに。

行ってみて驚いたのは、私が小学生ぐらいの頃に叔父に連れて行ってもらった大阪・都島の商店街の夜店にタイムスリップしたのかと思うほど雰囲気が似ていたこと。いろんな食べ物を焼いたり揚げたりする匂いまで同じ。30年前に亡くなったおばあちゃんを思い出して、ちょっと泣きそうになってしまった。



孵化直前のヒヨコ入りゆで卵バロット

まず息子にせがまれたのは、昔懐かしい射的。10ペソ(約25円)でプラスティックの弾を10個装填したおもちゃのピストルを貸してもらえます。これで棚に並んだ標的の人形や置物を撃ち落とすという至ってシンプルな遊び。落とした標的のサイズや数に応じてチョコレートやキャンディなどのスナック菓子が景品。息子は日頃コンピューターゲームばかりやっているせいか、実際にピストルを手に持つ遊びは珍しいようで4回も連続射撃。


その後は、家内と一緒だと買ってもらえない、油で揚げて串刺しにした真っ赤なソーセージを買い食い。家内に言わせると、どれだけ古い油使ってるか分からんので、お腹壊すかもしれないんだそうです。そう言われても、子供ってこういう安っぽい食べ物が大好きなんですよね。

仕上げはエンジンむき出しのボロッちぃ観覧車。これも家内は自分が怖いもんだから、今まで息子も乗ったことがない。実は私もちょっと怖かった。もともと絶叫マシーンの類は避けてましたが、こちらはそれとは全然違う意味でスリル満点。動き出すとやたら揺れるし、観覧車にしては回転スピードが異常に速い。隣に座った息子はしばらく固まってました。しかも10分ぐらい延々と止まらない。すべて手動式なので、運転手のオジさんが適当に止めたり動かしたり。


video

観覧車から降りると辺りはだいぶ暗くなっていました。射的以外のゲームは子供よりも大人がたくさん集まってます。要するに小銭とは言え本気で賭け事してる。顔がマジですね。ということで小一時間ほどでしたが、親子でフィエスタの宵を満喫しました。



2015年11月9日月曜日

もう一つの独立記念日 シンコ・デ・ノベンブレ

フィリピンの独立記念日と言うと6月12日。この時期にはフィリピン全国でお祭り騒ぎになります。そしてここネグロス島では、もう一つの独立記念日が。1898年、スペインとの戦いの最中、フィリピン全土が独立を宣言する以前に「ネグロス共和国」が先に樹立。先日の11月5日は、この時の武装蜂起を記念してネグロスだけの祝日で、スペイン語で11月5日を意味する「シンコ・デ・ノベンブレ」がそのまま祝日の名称になりました。

この「革命軍」、実際には短刀や槍しか持っていなかったけれど、ヤシの木で作った偽ライフルや、筵を巻いて黒く着色した偽大砲でスペイン軍を欺いて降伏させたそうです。当時はマニラのあるルソン島、お隣のパナイ島で連戦連敗状態だったスペイン。どうやらすっかり士気が落ちていたので、こんな子供だましに引っかかったらしい。

家内の実家のすぐ近くには、この偽大砲エピソードをモチーフにしたと思われるモニュメントがあります。建てられたのは割と最近で1990年。モルタル製でペンキ塗ったものなのでちょっと安っぽいですが、逸話の内容にはある意味ピッタリ。でもどうせなら100周年の1998年にすればいいのにと思ってしまった。




ブログの投稿を書くに当たって、ネグロス島生まれの家内に色々聞いたみたところ、意外にも郷土の歴史をあんまり知らない。私などは小学校の授業で兵庫県尼崎市の歴史を習って、今でもかなり詳しく覚えてますけどねぇ。と言うことで、ここから先はウィッキペディアの記述が頼り。

結局ネグロス共和国はほんの1年間も保たずアメリカに占領されてしまい、その後の日本の軍政があったりして、第二次大戦が終結してフィリピンが独立した後は国内の州の位置に甘んじています。しかしやっぱり短命だったとは言え、故郷が独立国だった事実は誇りなんでしょう。フィリピン全体の独立記念日と同様か、それより盛大なぐらいのお祭り騒ぎ。移動遊園地は来るし、当日は市役所前で派手に花火は上がる。


モニュメントがある通りの名前もシンコ・デ・ノベンブレ

そして11月5日に先立つ11月1日、2日が万聖節・万霊節でカトリックの祝日なので、毎年10月末から11月の第1週の10日間ほどは学校がお休み。ネグロスの子供にとっては、夏休み(4月〜5月)、とクリスマスに並ぶ長期の休暇になります。10歳の息子は、この日の意味を学校でちゃんと教えてもらっているのかな?


2015年11月4日水曜日

フィリピン妻の日本土産

先月末から10日間に渡ってフィリピン人の家内が、勤めている日本のNGOの招聘で日本に行ってきました。家族で移住して2年半、久しぶりの日本です。こういう場合、出かける側は土産物に何を買うか頭を悩ませることが多いですが、今回はずいぶん前から家内にお願いしてました。それが日本製の炊飯器。

日本と同じく、お米が主食のフィリピン。炊飯器は当然市販されているし、別に困っているわけではないけれど、どうもあまり上手に炊けない。水加減がちょっと違っただけで、固すぎたりベチャベチャになったり。たまにこちらでは高級食材のジャポニカ米(粘り気のある日本米、フィリピンでも作ってます)を炊いてもイマイチ。

そこそこの値段の製品のはずだったのに、1年も経つと内釜のテフロン加工は禿げてくるし、蓋についている通気孔からは炊く度に吹きこぼれで周囲は汚れるし...。



このテフロンが禿げた場所に炊いた米がこびり付く
目盛りは老眼には読みにくいぞ!


超シンプル機能なのに白米と粥の選び間違いを誘発するスイッチ
なぜ白米と炊飯を同じ赤、粥と保温を同じ緑にするのじゃ?

海外生活している他の日本人のブログなど読んでいると、インディカ米でも日本製の炊飯器なら美味しく炊けると書いてあって、機会があれば...と以前から考えていました。そこで家内の日本出張が決まってすぐにネットで検索。

最近は中国人観光客が「爆買い」と称して景気のいい買い物をするそうで、220ボルト仕様のものがずいぶん品揃えが豊富なんですね。5合炊きのHI炊飯器で3万〜4万円と当たりをつけました。できるだけ途中の荷物にならないように、帰りの空港の免税店での購入を頼んで家内を送り出したのが先々週の土曜日。

さて、10日後に約束通り大きな炊飯器のパッケージを抱えて、家内が無事フィリピンの自宅に帰ってきました。とっても久しぶりの日本製の高額商品。中国製の安物に慣れていると、何から何まで感動的です。まず梱包がきれい。こちらでダンボール箱は流通でよほど雑な扱いされているようで、角が凹んでたり靴跡が付いていたりが当たり前。

取説も分厚くて印刷がちゃんとしてます。しかも日本語、英語、中国語、韓国語の4か国対応。今使ってる炊飯器の取説ってコピーした半ぺらの紙一枚だったもんなぁ。しかも字が嫌がらせのように小さいし。


一番感心したのが内釜。水量の表示が大きくて読みやすいし、白米・玄米・粥・寿司飯の4種類の表示もある。しかも釜の形が配慮されていて、米を洗って水切りする時に水だけが上手く流れて、米がこぼれ落ちにくい。単に多機能だとか外見がきれいというだけでなく、隅々まで使う人のことを考え尽くされたデザイン。やっぱりよく出来てますね、メイド・イン・ジャパン。


家内によると「爆買い」をターゲットにした15万円の炊飯器もあったそうです。ネットで調べてみたら、いかにも中国のお客さんが喜びそうな、朱赤と黒の漆風外装炊飯器のチラシが見つかりました。富士山をバックに「日本製」と書いてある。ヘタすると、フィリピン人の年収ですよ。すごいなぁ。


2015年11月2日月曜日

亡き子を偲ぶ万霊節

数年前から日本でもハロウィンを祝うようになってきたようです。実際にその場にいたわけではなくネットの記事を読んだだけですが、渋谷や六本木ではずいぶん大騒ぎになったんですね。警官まで動員する混乱ぶり。

お祭りに騒ぐのは何も日本に限ったことではなく、ここフィリピンに比べれば騒ぎのレベルはまだまだ大人しい。先月のマスカラ・フェスティバルやクリスマス、さらには選挙まで何日も昼夜ぶっ続けの、文字通りのお祭り騒ぎにしてしまう国民性ですから。ただ、ハロウィンとそれに続く11月1日の「万聖節(諸聖人の日)」、の11月2日の「万霊節(死者の日)」の本来の意味を考えると、今回のような日本のバカ騒ぎ振りはどうかと思いますね。

昨年も似たような投稿をしましたが、フィリピンを始めとするカトリック国では「万聖節」「万霊節」は日本のお盆に相当します。ハロウィンはその前夜祭で、厳密には宗教行事ではありません。ここでも仮装パーティをしたりしますが、どちらかというと「トリック・オア・トリート(お菓子をくれないと悪戯するぞ)」という台詞に代表されるように、子供が主役。



万聖節にはお墓参りで大賑わいで、墓地周辺道路は大渋滞に

万霊節の今日、家内の親戚でこの5月に子供を亡くしてしまった両親がフェイスブックに投稿した写真を見ると、フィリピン人にとってのこの日の意味がよく分かります。写真に写っている後ろ姿はその子供の祖父。残念なことに、この子は生後1時間で天国へ。日本風に言えば今日がその子の初盆になります。それだけに悲しみもまだ生々しく、写真に添えられたお母さんの言葉は胸に突き刺さるような内容でした。


誕生日と命日が同年同日の墓標

外国から取り入れた文物を日本風にアレンジして、独特の文化にしていくのが昔から日本人の得意とするところ。それはとてもいい面もありますが、時としてあまりに表層的すぎて、オリジナルの意味を考えなさすぎることがあるようです。クリスマスも救い主の生誕を喜び祝う日のはずが、前夜は都心のホテルがカップルの予約でいっぱいになってしまうお国柄なので、仕方ないのでしょうか。

2015年11月1日日曜日

本家ゲリラ豪雨

ウィッキペディアによると、日本でゲリラ豪雨という言葉が頻繁に使われるようになったのは2006年頃からだそうです。2008年には「新語・流行語大賞」に選ばれてたんですね。気象用語ではなく主にマスコミが使う俗語のようなもので、きちんとした定義が決まっているわけではない。しかしウィッキの記述にある「10キロ四方程度の極めて狭い範囲に降る、1時間当たり100ミリを超えるような猛烈な雨」という表現が感覚的にはぴったり。

この説明でいくと、ここフィリピン・ネグロス島に時折降るのは、まさしくゲリラ豪雨。熱帯地方なので本家ゲリラ豪雨とでも言うべきか。日本では自転車好きで、真夏でも往復20キロぐらい平気で漕いでテニスしに行ったりしてました。その時のマウンテン・バイクを海外引越しでわざわざ持ってきて、今でもよく乗っています。でも遠乗りはどうしても躊躇してしまうのは、このゲリラ豪雨が原因。

つい数日前も夕焼けがきれいだったので、自宅から数キロほどのサトウキビ畑に自転車で出かけたところ、それまでほとんど雲が出ていなかったのに、ほんの数分で頭上だけに黒雲が広がって、慌てて引き返した時はすでに手遅れ。バケツをひっくり返したという表現すら生易しいほどの大雨で、敢えて例えるなら滝のような豪雨とでも言いましょうか。ウェストポーチに入れたカメラ替わりのスマホだけは、何とか身体を丸めて庇いましたが、それ以外は下着までずぶ濡れ。


この写真の撮影直後に大雨

その前は最近恒例の週末テニス。朝からいい天気で、やる気満々で出かけた土曜日。ウォームアップのショート・ラリーが終わり、さて本格的に打ち合いを...と思った瞬間に土砂降り。しかも陽がさしたまま降る「狐の嫁入り」というやつ。カンカン照りの土砂降りなんて、日本ではまずお目にかかれないでしょうね。土のコートには見る間に水溜まりができて、このまま止んでも数時間は使えないであろう状態。早々に諦めて帰宅しました。ムカつくのはテニスコートから数分車で走ると、全然雨が降ってないこと。道路は乾ききっていて、そもそも雨自体がまったく降っていなかった。


さらにフィリピンでの豪雨のすごいのは、20キロも離れていない隣街で終日降り続く大雨があっても、こちらではまったく降っていないことも。途中に山があったりすれば分からなくもないですが、まったく平坦な海岸沿いに隣り合った場所。予測不能という点では、本当にゲリラ豪雨ですね。