2015年7月30日木曜日

出刃庖丁の切れ味

海に面したフィリピン・シライの街。市場にはその日に水揚げされた新鮮な魚介類が並び、我が家には数日おきに魚の行商人が、自転車漕いでやってきます。日本でも見慣れたアジやカマス、カニにエビにイカ、フィリピン人の大好きなミルクフィッシュなどなど。すっかり顔なじみになった魚屋さん、家の前に来ると「ダ〜イ(お嬢さ〜ん)」と家内を呼びます。童顔なのでこう呼ばれる家内ですが、間違いなく魚屋のおじさんより年上。



漁師から直接買い付けてそのまま売りにきているので、当然ながら切り身になってラップに包んで...という状態ではありません。獲れたてそのまんまの尾頭付。当初はさばくのにナマクラ包丁で悪戦苦闘。日本ではやったことないので、切るだけでなくウロコ取りや骨抜きがこんなに面倒だとは知りませんでした。包丁でウロコをこそぎ落とすと、流しの周りに飛び散って掃除もたいへん。

そこで先日、日本からのお客さんにお願いして出刃庖丁とウロコ取り器、骨抜きを持ってきてもらいました。本当は自分で手に取って選びたかったけれど、さすがにそこまではお願いできない。こういうときアマゾンのカスタマーレビューは役に立ちますね。

手荷物には絶対入れないようにしてもらい、ついに日本製の出刃庖丁が到着。実を言うと、自分で買うのも使うのも生まれて初めて。ましてやフィリピン人の家内は、間近に見たことがなかったと思います。箱を開けての第一声「怖わ〜」。特にセットになった刺し身包丁など、この刃渡りの長さは凶器になりそう。私も、最初は恐る恐る使い始めたものでした。


それにしても、切れる! 
日頃使い慣れてる人にとっては当たり前の話なんでしょうけど、初めて使うとその切れ味に驚きます。以前は魚の三枚下ろしというと大仕事で、一尾さばき終えると汗だくでしたが、新しい出刃庖丁だと拍子抜けするぐらいあっさり。変な力が入らないので、かえって怪我は少ないかも知れません。


あれから2ヶ月経って、だいぶ慣れてきました。最近我が家に来たメイドのアミーも、出刃庖丁を見るのが初めて。私がカマスをさばく様子を、子供のように息を詰めて凝視してます。そのアミーが食事の時に「サー、骨はどこにいったんですか?」と真面目な顔で尋ねたのには、大笑いしてしまいました。


2015年7月28日火曜日

悩み少なきフィリピーナ

フィリピンと多少とも関わりを持ったことがあれば実感されると思うのは、楽観的な人が多いことでしょう。少しぐらい失敗しようが嫌なことがあろうが、いつまでもクヨクヨ思い悩まない。時には、ちょっとぐらい悩んでくれよ〜と言いたくなる場合もありますが、フィリピンに比べて度を越したレベルの「気ぃ使い社会」の日本よりは、ずっと気楽なのは確か。

ただ例外的に、恋愛絡みで思い詰める人はいるようです。自殺など滅多にないフィリピンで、ごく稀にあるのは失恋が原因の自殺。また、女性の嫉妬深さとその感情の激しさは恐ろしいほど。

一番身近なフィリピン人である家内はどうかというと、これが読んだり聞いたりしたフィリピーナのイメージからはずいぶんかけ離れています。嫉妬深さはさて置き、ひょっとすると並みの日本人より几帳面で、スケジュール管理がちゃんとできる。私の親戚や友達の家に行く時でも、土産物の気は使うし、時間より早めに着くように考える。

結婚する前、最も心配だったお金も管理もまったく問題なし。財布ごと預けても1ヶ月家計のやりくりして、給料日前にお金を使い切ってしまうことは、ほとんどありませんでした。逆に私がアマゾンで次々と衝動買いしたりすると、本気で怒られたり。

日本に住んでいた15年間は、この家内に家事の一切は任せていて、移住後自宅が完成してから、料理だけは私が肩代わり。毎日食事の用意をしてる人ならば分かると思いますが、来る日も来る日も献立を考えるのは想像以上に面倒。朝ごはん食べながら、お昼はどうしよう? 昼ごはん食べながら、晩はどうしよう...この無限ループ。

ある日、家内に「毎日献立考えるの、15年間もたいへんやったね」と心からの感謝と労いを込めて言ってみると「何が?」と聞き返されてしまいました。よく話を聞いてみると、謙遜しているのではなく、本当に食事の献立で悩んだことがなかったらしい。

「冷蔵庫を開けて、あるものでできるメニュー考えるだけ。時々友達に電話して、今日の晩ごはんどうする?って訊いて、その真似したり。」なんだそうです。思い返してみれば、たまに缶詰のコーンビーフ炒めただけの晩ごはんもあったなぁ。まぁその割には、文句を言うようなことは一回もなかった。

流暢な日本語を操り、外を歩くと日本人に道を尋ねられる家内。いつの間にか、感性も日本人と同じと思い込んでいましたが、やっぱり家内も間違いなくフィリピーナだったんですね。




最近の献立 ふつう食材買うときメニュー考えないかなぁ?

2015年7月27日月曜日

それでも英語は聴き取れない


先週の投稿で英語の勉強法(のようなこと)について書きました。あれを読むと、さぞかし私はペラペラに英語を喋ってるみたいに感じるかもしれません。でも本当のところ、面と向かって喋れば何とかコミュニケーションが取れる、ぐらいのレベル。家内のようにフィリピンで生まれ育って、テレビのドラマは半分が英語、ハリウッドの映画も字幕も吹き替えもなしで観るのが当たり前、書籍に至っては大半が英語...みたいな環境にいるのとは、鍛え方が全然違います。

せめて中学か高校で英会話をやってれば、もう少し聴き取りがマシになってたかも知れません。本気で取り組み始めたのが23歳ぐらいだったので、ちょっと遅すぎました。映画も音楽も、英語のものはそのまま楽しめる家内を見ていると羨ましくて仕方ない。

今では10歳の息子にまで少々バカにされるほど。昨日の投稿でスタートレックを一緒に観ていると紹介しましたが、笑うタイミングは完全に字幕ではなく聴いて理解している。読書も「ハリー・ポッター」を原書で読み込んでいます。

最近、アメリカ人の友達ができて久しぶりにまとまった量の英語を話しました。まだ二十歳のマット君。アメリカ人にしては分かりやすい英語を喋ってくれると思ったら、やっぱり海外経験が豊富で、自身もドイツ系の父とラテン系の母を両親に持ち、スペイン語ができる。英語を母語にしない人と話し慣れているんですね。

フィリピン人もそうですが、いくら語彙が豊かで流暢でも英語が第二、第三言語の人の英語はとても分かりやすい。だからこそ私のナンチャッテ英語でも、東南アジアである程度は仕事ができたと言えるかも知れません。

ロンドンやニューヨークに初めていった時など、本当に英語なのか?というぐらい周囲の会話が聴き取れず、かなり落ち込んだものです。

そこで、前よりはもう少し真面目なアドバイス。大人になってから英語を何とかしたいと思う人は、イギリスやアメリカ、オーストラリアといった英語が母語で、英語しかできない人ではなく、英語「も」喋れて日本語ができない人と友達になることをお勧めします。


2015年7月26日日曜日

トレッキーなメイドさん


新しいメイドさんがやって来て、もう一週間経ちました。最初の印象通り、いつも明るくてハキハキ返事のアミー嬢。だいぶ我が家の雰囲気にも慣れたようです。

初代メイドのカトリーナも悪い感じではなかったのですが、比較対象があるとずいぶん違うものですね。カトリーナもいつもニコニコとはしてたものの、どことなく引っ込み思案で、あまり得意ではない英語での会話ということもあり、私とのコミュニケーションは、ぎこちなさが最後まで消えませんでした。

アミーの場合、意識的にそうしているのか、それとも持って生まれた性格なのか、朝の挨拶も話しかけた時の返事も爽やか。大声出してるわけでもないけど、とてもハッキリと発音してくれるので、聞いている方も気分が良くなります。

もうひとつ私の印象を良くしているのが、いろんなことに好奇心旺盛なところ。特に私の料理に興味津々。揚げ物の衣つけや、魚を出刃包丁でさばいているところなど、ちょっとこちらが緊張してしまうほど熱心に観察しています。この調子ならば、いずれ少しづつ料理を覚えて、味噌汁ぐらい作ってもらえるかも知れません。

そしてここ数日のこと。
私と家内、息子は「スタートレック」が大好き。スタートレックとは、50年も続くアメリカのSFドラマで、テレビシリーズは5本、映画は12作あり、今も最新作が制作中という超人気番組。ファンは「トレッキー」と呼ばれ、ここフィリピンにもたくさんいます。

私もかなり重症で、テレビも映画もDVDは全部揃えているというトレッキー。最近では4本目のテレビシリーズ「スタートレック・ボイジャー」を1日1話づつ、息子と一緒に鑑賞しています。

このボイジャーにアミーがハマったらしい。別に一緒に見ろと言いつけたのではないのに、気が付いたら毎晩、息子と一緒にテレビの前で待っています。セリフは英語音声で日本語字幕。それにしてもアミーの英語聞き取りのレベルだと相当難しいはず(SF特有の専門用語がいっぱい)なのに、ずいぶん真剣に見入ってる。

息子がスタートレックに興味を持ち始めた時もそうですが、もう一人子分が増えたようで妙に嬉しくなりました。




2015年7月24日金曜日

英語の正しい勉強法


少々唐突ですが、今日は英語の勉強について。

私は帰国子女でもなく、英語を母語とする親がいたわけでもありません。大多数の日本人と同じように、成人するまでほとんど日本語だけの環境で育ち、英語は中学生から大学2年の一般課程までの約8年間、読み書き中心に習っただけ。

会社に入って初めてTOEICなる英語の試験を受けて、1000点満点で200点に届かずという惨憺たる結果。これも当然と言えば当然。しかし、その会社というのが私の入社時の30年前、既に海外に何十箇所も製造・営業拠点を持つ大企業で、嫌でも(少なくとも)英語ができないと、仕事にならないという場所でした。

その後、30歳になるまでさらに8年ほど「語学研修」を業務外の時間に受けることになりました。とは言っても強制されたわけではなく、意外な楽しみがあって結果的に続いたという感じ。

とてもベタな話なのですが、最初の頃は同じクラスに同世代の若い女性社員が多かった。そして男共がしばらくすると業務繁忙を理由に脱落していく中、女性が残ることが多く、1年目の後半辺りになると、女性が5〜6名で男が私1人というのが常態化。これはやっぱり励みになりますわな。

その後も美人の先生(この研修では先生は全てネイティブで、日本人はほとんどいません)だった時など、この先生を何とか英語のジョークで笑わせようと、それだけの理由で頑張ったりしました。動機は誠に不純ですが、漠然と「英語が喋れるようになりたい」だけでは絶対に続かなかったろうと思います。

そうこうしているうちに、度胸だけは十分ついて海外出張の機会も増えました。私の専門は商品のデザイン。モックアップ(デザインの試作品)を持って行き、現地のディーラーにプレゼンテーションをして、デザインを決めてくるのが主な仕事。

デザインというのは、下手をすると「ワシ、こんな色・形キライや」と言われたらそれでお終いの世界。そうではなく、なぜこういうデザインなのかを、市場特性や商品のアピールポイントを踏まえて理路整然と説明し、納得させなければいけません。さすがに最初の頃は、猛勉強をしたものです。

しかし何と言っても、一番強力な動機付けになったのは、今の家内と付き合い出したこと。家内は当時日本語はまったくできず、共通の言葉は英語だけ。しかも相手はフィリピン大学に研究員として勤務しているインテリ。インターネットがまだまだ普及していなかった当時、一通のラブレターを書くたびに、私の英語能力はアップしていったと言えるほど。

トドメは、向こうの両親に「お嬢さんをください」を言いに行った時。これは今思い出しても一世一代の大プレゼンテーションでした。

ということで、英語をモノにしたい皆さん、英語ネイティブの大学出の人を恋人か配偶者にするのが、最短コースですよ。


2015年7月22日水曜日

黄色い棺桶 セレス・バス

フィリピンの運転マナーの無茶振りは以前にも投稿しました。ウィンカー点けずに右左折・進路変更は日常茶飯事で、スピード狂のドライバーも多い。運転マナーがなってないことで有名な大阪近辺ですら、ここまではひどくないでしょう。

そして一番怖いのは路線バスのセレス。比較的最近普及し始めた中国製の黄色いボディがトレードマーク。昔に比べると車体はきれいなったのですが、運転の酷さはまったく変わってないようです。家内などはこのバスを「黄色い棺桶」と呼んでます。

セレス絡みの事故は、軽微なものは何度となく実際に目撃してます。自家用車を購入前には、隣街からの帰りにセレスに乗って、あわや事故に巻き込まれそうにもなりました。その時は偶然一番前の見晴らしのいい席。いつものように満員の客を乗せて100キロぐらいでぶっ飛ばしてました。

シライ市内に入ろうというところで、何を思ったのか対向車線から一台のトライシクルがUターンしてバスの前に割り込み。運転手が急ブレーキかけて間一髪のところでバスは止まりましたが、私はもう少しで前に飛ばされて、フロントグラスに頭をぶつけるところでした。ああいう時は、見ている景色がまるでスローモーションのように記憶に残るんですね。今でも輪タクの後部座席に乗ってたオバちゃんの表情が恐怖に凍りつくのを、鮮明に覚えています。

さてこの「黄色い棺桶」。今朝の地元ラジオ局が伝えたところによると、自宅近くの幹線道路で、セレス同士が正面衝突する事故を起こしました。合わせて4名が亡くなり40名以上が負傷したとのこと。事故現場は、私が週末テニスをする時にいつも使う直線路。周囲360度が全部サトウキビ畑なので、これ以上はないというほど見通しのいい場所。
報道で詳細は分かりませんが、事故のあった時間帯は久しぶりの土砂降り。恐らく視界が悪いのに無理な追い越しをしたのではないかと思います。



日本の路線バスと違って、こちらではバスの運転手と車掌の報酬は歩合制。つまりできるだけたくさん客を乗せて、できるだけ速く目的地に着けば、その分身入りが良くなる。なので、同じ目的地に向かうバス同士が、競走して抜きつ抜かれつというのをよく見ます。

噂によると夜間走る時は覚醒剤(フィリピンでは「シャブ」という言葉がそのまま通じます)を常用する運転手もいる。これでは家内でなくても「棺桶」と呼ぶのも分かります。

フィリピンで免許を取って早2年。どうも周りに影響されて運転が乱暴になっている私ですが、これを教訓に挑発に乗らない冷静な走りを心掛けましょう。


2015年7月21日火曜日

南国のキャンディクラッシュ

コンピューターゲームにはあまり興味がなくて、ほんの一時期テトリスにハマッたぐらい。ところがフィリピンに移住してから、キャンディクラッシュに夢中になってしまいました。

日本ではテレビのCMも打ってるそうなので、したことはなくても名前ぐらい知ってる人も多いのではないでしょうか? 基本ルールは単純。でも何回か失敗すると次にプレイできるまで30分待たないといけないとか、ステージごとに新しいアイテムが登場するとかの工夫がすごくて、うまい具合に飽きさせない作りになっています。

このキャンディクラッシュ、フィリピン人の大好きなフェイスブックを通じて、友達同士で助け合ったり点数やステージ数を競ったりできるので、こちらでも大流行。実は私がこのゲームを知ったのも、フィリピン人の家内に教えてもらったから。

カフェやレストランで、スマホいじってる人が多く、それでキャンディクラッシュしてるのをよく見かけます。たまたま知り合った若い人にキャンディクラッシュの話題を振ると、それだけで盛り上がることも。

根が凝り性な私は、教えてくれた家内を追い抜いて、現在ステージ850。初対面でもこのステージ数を言うと、ちょっと尊敬の眼差しで見られたりします。(単に暇さえあればゲームしてるだけの話ですが) このステージは日々追加されていて、全体ではもう1000を超えているそうです。

私がフィリピン通いを始めた20年前は、日比共通のメディアの話題と言うとハリウッド製の映画やドラマぐらい。女の子と付き合うにしても、どんな話をしたらいいのか、途方に暮れることもありましたが、今では二十歳そこそこの相手でも、ゲームや日本のアニメでなんとか場を持たせることができます。

こちらがもうオっさんで、所帯待ちになってしまったことが、少しだけ悔やまれる昨今...。


2015年7月20日月曜日

二代目メイドのアミー


18歳のアミーは突然やって来ました。
叔母で私の友達リタに連れられて、金曜日の夕闇が迫る時刻。来るとは聞いてたけど、日時の連絡なしでいきなりだったので、たまたま家内と息子は不在。日本語を少しだけ解するリタが「◯◯さ〜〜ん」(◯◯は私の日本姓)と呼ぶもんだから、最初は誰かと思った。

不意打ちを食らったような形でしたが、アミーの第一印象はとても良かった。門扉越しに私と目があった瞬間に顔中笑顔。こういう状況では、フィリピンの若い女の子というのは変に恥ずかしがる場合が多いのですが、アミーは「人見知り」を置き忘れてきたらしい。

どっかで見た感じだと思ったら、遥か昔の高校時代の同級生になんとなく雰囲気が似てる。陸上部所属でスリムで手足がすらりと長い女の子。アミーも走らせたら早そうです。

とまぁ、私は気に入ったのですが、最終決定権は厳然と家内が有しています。前のメイドを辞めさせたのも家内を怒らせてしまったから。多分、フィリピンのどこの家庭でもそうだと思いますが、メイドのボスは主婦。旦那がメイドの肩を持ったりすると、それだけで家庭不和の原因になりかねません。

今回も私の感想などはおくびにも出さず、家内の帰りを待ちました。しばらくして息子と一緒に戻ってきた家内。紹介人のリタも交えて、玄関先で30分ほども話し合い。私は同席せず(しても地元の言葉なので、何喋ってるか分かりません)居間で待機状態です。

何とか家内のお眼鏡にもかなったようで、翌日から早速住み込みで働き始めることになりました。当初は通いでいいかと思ってたのですが、アミーが住むのはシライ市街地から路線バスとジプニー(乗り合いバス)を乗り継いで片道3時間もかかる山間部。運行本数が少なくて、夕方になると帰れないような場所です。

後で聞いたところ、アミーには11歳を筆頭にまだ幼い弟一人と妹が二人いて、セカンド母ちゃん役。家を出る時は「涙の別れ」だったとのこと。メイドを雇い慣れていない私としては、こういう話には弱い。家内の機嫌を損ねずに、結婚するぐらいまでは機嫌よくウチで働いてほしいものです。



2015年7月19日日曜日

ハウスメイド・ウォンテッド


初代メイドのカトリーナが我が家から去って、早8ヶ月。次のメイドさん探しはすぐに始めて、友達や知り合いの何人かに声をかけてました。これが思いの外難航。以前にも投稿したように、怠け癖や盗癖があったり、いろいろ面倒事を持ち込む人が多いこの業界。しかも、これだけメイドの需要があるのに、ネグロス島には紹介所というかエージェントがないらしい。

結局口コミに頼るしかなく、紹介する側も変な人だと恥をかくことになるので、中々見つかりません。そういう事情でこんなに間が空いてしまいました。

契機になったのは、家内の就職。シライ市内を中心に活動している日本のNGOで現地スタッフに欠員が出て、縁あって家内に声がかかりました。基本はパソコンとネットを使った在宅勤務とは言え、ミーティングや手続きのための役所への出張なども多い。

食事は私が担当してますが、親子3人で住むにしては広い家を建ててしまったので、掃除や庭の手入れがたいへん。また、子供の送り迎えとかお弁当を持って行ったりということもあり、ちょっとした留守番や買い物など「ここでメイドさんがいたら...。」という状況が急に増えてきました。

それ以外にも、こちらではホームパーティの頻度が高い。10人とか20人とか来るのが普通なので、中数日で続いたりすると準備も後片付けもゲンナリしてしまいます。

そこで半分冗談のつもりでフェイスブックに「Housemaid Wanted」(メイドさん募集中)という投稿をしてみたら、他家でメイドしてる友達から「私の親戚を働かせてやって」という返事が来ました。

この人には前から紹介をお願いしてたんですが、たまたま姪っ子がこの4月に高校を卒業して、仕事探しをしているのを私の投稿を見て思い出したようです。やっぱりダメ元でも何かしらアクションをしてみるもんですね。

ということで、実はもう昨日から新しいメイドさんが住み込みで働き始めてます。さて、どうなることか...。次回に続きます。


2015年7月15日水曜日

フィリピンから見た日本 2015.7.15

今日 2015年7月15日、日本はとんでもなく騒がしい一日になってしまいましたね。言うまでもなく衆議院での安全保障関連法案の採決のこと。フィリピンに住む私より、日本にいる人たちの方が、実感としてよく分かっていると思うので、ことさら事実関係をなぞったり、政局に対する私見を披露するつもりはありません。そこで少し引いて、この一連の騒動へのフィリピンの報道や一般の人(おもに家内のことですが)の反応について書いてみます。

まず、特に日本の政治に関心の高い人でもない限り、今回の件について一般のフィリピン人は、ほとんど知らない。争点になっている日本国憲法の知識もない方が普通だし、ましてや9条の記述について知ってたら、私が驚くでしょう。

15年も日本に住み、フィリピンの最高学府と言うべきフィリピン大学の大学院まで出た家内ですら、まったく知りませんでした。まぁ、日本人が他国の憲法やその解釈までは、専門家でもない限り分からないのと同じこと。

さすがに大手新聞のフィルスター紙や、フィリピン最大の放送局ABS-CBNは、短くですが「自衛隊の役割拡大のための法律が上院(衆議院)で可決」という書き方で伝えています。ただし、それを脅威だとかネガティブな捉え方はしていない。

家内がどう考えるのか知りたくて、9条の内容から説き起こし、なぜ日本で騒ぎになっているかを説明してみたら、一言「憲法変えたらいいんじゃないの?」で終わってしまいました。

今でもミンダナオで内戦を抱え、家内が学生の頃まで自分たちの住むネグロス島でも紛争があったフィリピン。対外的には中国と事を構えて、軍事力を持たず戦争を放棄するという概念自体、理解できないんでしょうね。

しかし家内も、NHKワールド(NHKの英語放送)で国会前に一般市民が抗議のために集まった様子を見て、自分がエドサ革命(1986年)のデモに参加したことを思い出したらしく、容易ならざる事態だと悟ったようです。

私も、政治絡みでここまで騒然となった日本を見るのは、子供の頃の70年安保以来。しばらくは異国の地で、心が落ち着かない日々が続きそうです。


2015年7月14日火曜日

フィリピンの熱中症


7月も半ばにさしかかり、日本から流れて来るのは「熱帯夜」「猛暑日」「熱中症」の記事。文字面を見るだけで不快指数がドッと上がりそう。特にここ数日は、熱中症で病院に搬送されたとか、お年寄りが死亡したというニュースが目に付きます。

熱中症、フィリピンでは英語で「ヒートストローク」と言います。現地の言葉でも調べればあるんでしょうけど、家内は知りませんでした。

フィリピンでは誰も熱中症にかからない、と断言した人のブログを読んだことがありますが、決してそんなことはないようです。フィリピンでの真夏に当たる4〜5月には、日本ほど頻繁ではないけれど、やはり35度超え、時に40度という日が。家内によるとその時期は、ニュースでも時々ヒートストロークによる死亡事例が報じられ、特に屋外労働に従事する人が危ない。

ここネグロスでも報道されないだけで、サトウキビで働く人にも被害が出てるのではないかと容易に想像できます。何しろ日陰になるものがまったくない広大な畑で、朝から晩までの重労働。いくら慣れてると言っても、体調が悪かったり栄養が足りなかったりしたら、倒れても不思議ではありません。

息子の従兄姉を見てると、時々危ないなぁと思うこともあります。お兄ちゃんのアンドレはブラスバンドに所属していて、毎年夏休みの一番暑い時期にコンテストを開催。当日だけでなく何週間も前から土日は朝から夕方まで、屋外で練習してます。
妹のジャスミンはお父さん(私の義弟)と一緒にサッカー。子供のチームで試合もするそうで、こちらも夏休みが主な活動時期。

しかし、不思議と身近なところでは、熱中症で具合が悪くなったという話は聞きません。やっぱり年中、涼しい時期でも最高気温が30度前後になる土地に生まれ育ったせいか、炎天下では無理しないことが、徹底されているんでしょうか?

一般の生活では、真夏の午後など外を歩いている人がほとんどいなくなります。市場などが混むのは、朝か夕方。暑い時は冷房の効いたショッピングモールに逃げ出すか、玄関先の木陰に置いた縁台で昼寝してるか...。こういうライフスタイルだと、やっぱり熱中症の患者数は日本よりだいぶ少ない感じです。


2015年7月12日日曜日

まるで初夏のテニス・コート

日本では熱中症に注意という記事が出るほど、真夏の暑さが本番の時期にさしかかっているようです。こちらフィリピン・ネグロス島では、4〜5月が夏で、その後は雨季。6月中は午前中晴れて、午後夕立ちのパターン。しかし7月に入って約2週間、台風3連発の影響で毎日の雨。

涼しくて気温だけ見ると快適なんですが、さすがにこうも鬱陶しい天気が続くと気が滅入ってきます。小学生の子供の送り迎えは仕方なしに出かけますが、ジム通いや買い物も億劫で、出歩くことが少なくなってしまった。先週も日本人のテニス仲間が1ヶ月ぶりに一時帰国から戻ってきたので、コートへ...と思いきや、やはりの朝から土砂降り。

そして、昨日の土曜日。
性懲りもなく今週もテニスの約束だけはしてたら、やっと朝から青空が。雲はかかっているとは言え、こういう空を見るのは本当に久しぶりです。直射日光が少ないので、体も動かしやすくて、たっぷり2時間、木立の中のテニス・コートを走り回りました。


このコート、シライ市内にある砂糖の精製工場「フィリピン・ハワイアン」という会社の敷地内にあります。従業員のための娯楽施設で、テニス・コート以外にも大きなサッカー場も併設。当然ながら周囲はサトウキビ畑しかないので、実に贅沢な土地の使い方です。

私たちは別に会社関係者でもなんでもありませんが、どういう訳だかゲートの守衛さんは「テニスしますから」と言うと、顔パスで通してくれます。最初の頃は身分証明書の類を預けないと入れなかったんですけどね。

日頃テニスをする人は、20人ほどいます。でも人が集まるのは夕方以降で、照明の下のナイターが基本。昼間は誰も使いません。熱帯の気候で紫外線満タンの日差しの下でテニスしたりするのは、外国人か余程の変わり者...ということらしい。なので、いつも2面あるコートは貸切状態。2人しかいないので、1面しか使えないけど。


そして日曜日も教会でのミサ後またまたコートへ。今日は雲も少なく、暑さが戻ってきました。暑いと言っても今の日本に比べれば気温も湿度も初夏みたいな感じ。さすがに連チャンでしかもずっとシングルスなので、最後の方はくたびれてしまいミスを連発したものの、ようやく溜飲が下がった思いです。しばらく、この天気が続いてほしいなぁ。


2015年7月10日金曜日

心にカビが生えそうな

フィリピン・ネグロス島はただいま雨季真っ只中。
6月はそれでも午前中〜晴れ・午後〜夕立と、日中の半分は日差しがあって青空も見られたんですが、7月に入り台風3連発が来てから、もう雨ばっかり。朝は雨は止んで、時には太陽も顔を出しても、午前9時ぐらいにはまた土砂降り。

去年のフェイスブックの投稿読み返したら、やっぱり雨は多かったけれど、ここまでしつこくはなかったようです。雨が降るだけでも鬱陶しいのに、ガレージの雨漏りはあるし、2階ベランダの木の扉は、雨が吹き込むために湿気で膨張し、すっかり建て付けが悪くなってます。おかしいな〜、去年も同じことがあって修理したのに。

これは、根本的に設計ミスだったみたい。ベランダはオープンにせず屋根を掛けておくべきだった。やっぱり自分も含めて日本人ばかりでのプランニングが、フィリピン人建築士ならまずしないようなデザインにしてしまった原因。

日課の散歩やサイクリング、週一度のテニスがままならないので、どうも気鬱が溜まっている。些細な心配事が一日中頭から離れず、そればっかり考えてしまいます。よくないですね、こういうのは。まるで心にカビが生えたみたい。

しかし私の気分とは裏腹に、植物にとって今が成長の季節。ベランダから見える隣の木々は、雨季に入ってから伸びた葉っぱが、はっきりそれと分かるほどみずみずしく茂ってます。乾季には、すっかりくたびれた様子だった庭の緑も新緑状態。パパイヤはここ数週間で、たくさんの新しい実をつけました。



と、ここまで書いたら雨が止みました。
いつもの小休止で、すぐにまた降り出すんでしょうけど、しばらくは周囲の緑でも眺めて、気分を変えましょう。


2015年7月9日木曜日

台風3連発


2015.7月9日現在のフィリピン周辺の風

「3連発」と書くと、関西人的には1985年に阪神タイガースが優勝した時の掛布・バース・岡田の連続ホームラン「バックスクリーン3連発」をつい思い出してしまう。私は取り立てて阪神ファンということもないけれど、さすがに尼崎に生まれ育つと、友人、知人たちの歓声が耳を塞いでいても聞こえてくるので、今でも強烈に覚えています。

そんなことよりも台風。
先週ぐらいからフィリピンのニュースでも盛んに伝えているように、台風が三ついっぺんに発生するのは13年ぶりなんだそうです。三つともどうやらフィリピン直撃ではなさそうですが、雨季のこの時期、接近するだけで周囲の雨雲を刺激するのか、最初の10号台風がフィリピン東岸を通過した頃から、ここネグロス島でも毎日豪雨。

例によって終日降りっぱなしでなく、時には日が差すほどの小休止を挟みつつも、降り出すと傘などまったく無意味なほどの土砂降り。10号が台湾の方向に去って、今は9号の影響と思われる風雨。昨夜など室内でも話し声が聞こえないほどで、今朝ついに雨季恒例の「インスタント池」が裏庭に姿を現しました。


庭や空き地に水が溜まるぐらいなら、大したことはないけれど、厄介なのは市街地ですぐに道路が冠水してしまうこと。排水施設が雨の量に対して貧弱過ぎることもありますが、レジ袋が排水溝に詰まるのが一番の原因らしい。レジ袋と言っても日本のものとは違い、公設市場などで使われるのは、薄くてすぐ破れる粗悪品。こちらでは「プラスティック」と呼ばれます。

マニラでは、このプラスティックを使用禁止にして、それなりに洪水防止に効果が出たというニュースを聞きました。代替品の紙袋は評判悪いみたいですが。それにしても、プラスティックを止めるより、道をゴミ箱代わりにする習慣を改めた方が、ずっと根本的な解決になるように思いますけどね。
多分、それは無理やろうなぁ...。


2015年7月8日水曜日

ご近所さんはお化けがいっぱい 後編

フィリピンのお化けについて、3回目の投稿です。
今日は少々シリアスな内容で、シライ市の中心から車で1時間ほどの場所にある、山間部でのお話。

ネグロス島は、マニラ、レイテに次ぐ太平洋戦争の激戦地で、日本兵だけでも約8000名が命を落としたと言われます。そのほとんどが直接の戦闘によるものではなく、米軍の砲撃から山に逃れる途中の戦病死や餓死。さぞかし無念だったでしょう。

自宅近くにも日本軍が敷設したトーチカ跡が残り、史跡として保存されています。こういう島なので、当然と言えば当然なんですが、やっぱり出る。山の中腹にあるパタッグ地区では、夜になると兵隊さんが集団で行進しているような、軍靴の音が聴こえるんだそうです。

幸か不幸か、私は霊が見えたり感じられたりする体質ではなく、これまでも実際に幽霊の類を目撃したことはありません。しかし、パタッグと同じく山間部にある、マンブカルという温泉保養地を初めて訪れた10年前に、不思議な経験をしました。

当時はまだ、ネグロス島で戦時中何があったかも詳しく知らず、単なる観光気分で楽しみに行ったのですが、到着早々体調が悪くなってしまいました。最初は風邪かな?と思ったけれど、熱が出るわけでもなく食欲もある。ただ、どうしようもなく全身が怠い。お湯に浸かった後は、ベッドに横になったままほとんど動けません。一夜明けた朝も同じ症状が続き、これは下山して病院に行かないと...。
ところが、マンブカルから離れた途端、すぅっと体が楽に。

日本に帰ってから、ネグロス島から生還した元兵士の書いた本を読んで、マンブカルは負傷や病気、飢餓で動けなくなった、多くの日本兵が亡くなった場所だと知りました。どうやらこれは日本人が来たので、兵隊さんが故国へ連れて帰ってほしくて、集まって来てたのかも知れません。



2015年7月7日火曜日

ご近所さんはお化けがいっぱい 中編

引続きフィリピンのお化けの話。
夜に投稿すると書いてる方が怖いので、真昼間に執筆中。昨日は自宅に出る(らしい)カプレという妖怪でしたが、今日のは自宅から100メートルも離れていない、空き家に出るお化け。

この空き家の持ち主は、シライの市会議員だそうで、自宅用ではなく借家にするために建てたもの。しかしどういう経緯なのか、私達が移住してきた2年前にはもう放置されていて、まだ建てて間もないみたいなのに廃屋状態。電気も水道も止められてます。



私たちの住む「セント・フランシス」は、シライ市内でも一番の高級分譲地。土地は全部売れていますが、かつてのバブル期の日本みたいに投資目的がほとんどで、全体の半分以上がまだ更地のまま。その空き家も、我が家からの間に他の家がないので、今ブログを書いている部屋の窓から見えます。

この家の玄関先に「ホワイト・レディ」が出没するんだそうです。このお化け、比較的最近フィリピンに現れた新顔で、白いドレスに長い黒髪がトレードマークの美人妖怪。何となく、私が子供の頃、日本で騒がれた「口裂き女」を彷彿とさせます。


フィリピンでは映画にも登場する「ホワイト・レディ」

お隣さんのばあちゃんも、空き家の向かいの土地で畑耕してる水牛飼いのオジさんも目撃者。二人ともよく知っている人で、わざわざ嘘を言うようにも思えない。やっぱり何かいるのか? 噂通りの美人ならば、私も会ってみたい気もしますけど...。


2015年7月6日月曜日

ご近所さんはお化けがいっぱい 前編

お化けの話、最近は「本当にあった怖い話」と言った方がいいんでしょうか? 日本ではこの手の怪談は夏場にするものと相場が決まってますが、年中夏のフィリピンでは、いつでも出没するようです。ちょうど一年ほど前にフィリピン版の座敷童「カマカマ」について投稿しました。今日のはもうちょっと薄気味悪い。

今住んでいる自宅を建てた時、人のいなくなる深夜に建材や工具の盗難を防ぐため、敷地内に設置したニッパハウスに、毎晩泊まりこんでもらった「何でも屋さん」のダリ。喧嘩早くて見た目もちょっと強面なオジさんで、昨年までウチに住み込みで働いていた、メイドのカトリーナのお父さんでもあります。

そのダリがある晩、見たんだそうです。
まだコンクリート打ちも終わっていない、鉄筋の塊の二階部分にお化けがいるのを。家内から聞いたところによると、ダリが見たのはフィリピンで「カプレ(Kapre)」と呼ばれる妖怪で、見た目には原始人か雪男のイエティという感じ。普通は木の上に住んでいて、なぜか葉巻を好む。

本当のところダリが見たのが何だったのかは分かりませんが、彼は性根が座っているし、そんな冗談を言うタイプでもないので、やっぱり何かいたんでしょうね。

その後、家が完成してから娘のカトリーナも、お化けを目撃しています。二階寝室の掃除をしていると、扉の向こうを誰かが通り過ぎた。てっきり私が階段を上ってきたと思ったら、私は一階のソファに座ってる...。えっ、そしたら、今のは誰?何?

お父さんのダリが見たのと同じものだったのでしょうか?

こんな話を深夜に、しかもお化けが出たという二階の部屋で書き始めるんじゃなかった。
明日もお化け話続きます。


フィリピンのお化け「カプレ」の想像図


大戦果 アリの巣コロリ

このブログでは過去何度か、フィリピンのアリの猛威について投稿しました。特に4〜5月の暑くて乾燥した時期はものすごくて、台所などキレイに掃除しておいても、かすかに残った食べ物の匂い引き寄せられたらしく、まな板や食器がアリで真っ黒(アカアリが多いので真っ赤?)になっていることもしばしば。ベットにまで上がってきて、普通に寝ていても、背中やお腹周りを噛まれたりもしました。

2ヶ月前に日本からの来客があって、その時に「アリの巣コロリ」持って行きましょうか?と親切に提案頂いてたのに、その時はまだ大したことがなく、お断りしてしまいました。しまった...。

その後アリ害がひどくなり、米びつの中にまで侵入されるに及んで、ついに私もキレました。一時帰国中の別の日本の友人にお願いして、アリの巣コロリ12個入りを二つ入手。翌日すぐに台所や寝室の窓際などに置いてみたところ...。


ネットのレビューを読んでいたので、かなり効果はあるだろうと思ってましたが、ここまでの大戦果は期待してませんでした。設置後30分もしないうちにアリが集まり始め、数時間後にはどれも「大盛況」状態。見ていて残酷な笑みが浮かぶのを止められません。


丸一日経過すると、アリの巣コロリの周りはアリの死骸でいっぱいで、それまで必ず室内の壁のどこかに出来ていた「アリの行列」も消滅。さらにガレージに置いた2個の効果で、門扉にタカっていた少し大きめの黒アリも姿を消しました。

これほど効き目が明らかならば、フィリピンに輸出したらいいのにと思うほど。ネグロス島では、害虫駆除の商品と言えば、昔ながらの殺虫剤やハエ取り紙ぐらいしか見ません。ゴキブリホイホイもその類似品もない。日本向けのものをそのまま持ってきたら、かなり高額になってしまうこともあると思いますが、虫に関しては本場熱帯のフィリピン。もっといろんな商品があっても良さそうなんですけどね。


2015年7月2日木曜日

街道をゆく 南蛮のみち

先日パソコン内のデータを整理していた時、移住直前に福岡の所属教会の月報に寄稿した文章を見つけました。毎月信徒の一人がお薦めの書籍を一冊紹介するというもの。ちょっと長いですが、転載します。


書名「街道をゆく 南蛮のみち」 著者 司馬遼太郎

少し大仰な言い方をしますと、この本が私とカトリックとの出会いでした。
若い頃から司馬遼太郎さんの歴史小説が大好きで、最初は「竜馬がゆく」「国盗り物語」などのから入り、やがて小説だけでなくエッセイや紀行ものも読むようになりました。そして出会ったのが紀行文学の金字塔とも言える「街道をゆく」の一連の作品でした。

実は、この本の初読の頃の私は、まだ受洗前の30歳前後で、後にカトリック信徒になるとは夢にも思っていませんでした。とにかくシリーズの1冊目から順番に読み進め、22冊目の「南蛮の道」を手に取りました。

この本で語られる、フランシスコ・ザビエルと、彼の祖国バスクと日本とのつながりは、学校の教科書でしか知らなかった私のザビエルのイメージを一変させました。変わるほどの知識もなかったという方が正しいかもしれませんが。


まず、ヨーロッパの地理は多少分かっているつもりだった私にとって、フランスとスペインの国境にバスクという国があること自体、驚きでした。しかも、ギリシャ、ローマ、さらにケルト人よりも前から今と同じ場所に存在し、他のヨーロッパ諸言語とはまったく孤立した語彙と文法体系から成るバスク語を持つという、おとぎ話のような国で、日本に最初のカトリック信仰をもたらした人物が生まれ育ったというのですから。

以下、引用です。
『(リスボンからアジアに向かう帆船サンチャゴ号の船内では)衛生状態は極度にわるく、途中、ほとんどの人が病人になった。ザビエルはかれらを看護し、汚れものの洗濯をしてやったりした。当時、高位の僧職者は貴族そのものあったことを思うと、異常なありかたといわねばならない。日本人にキリスト教を運んできたのは、このような人物だったことを考えておかねば、戦国期におけるキリシタンの爆発的な増加という事情はわかりにくい。』

以降、今に至るまで、この記述は私の中のフランシスコ・ザビエル像の基礎になっています。

司馬さんは、自分の著書の読者として日本の歴史や文化の予備知識を持たない外国人を想定している、という趣旨の発言をされていますが、日本の歴史はともかく、フランシスコ・ザビエルをはじめカトリックについてほとんど無知だった私は、良き読者だったかも知れません。この本をきっかけにカトリック信仰そのものに強い関心を抱くようになりました。

そして、その数年後、紆余曲折を経て、私はフィリピンの地で受洗しました。
洗礼を授けてくださったのは、スペイン国籍のパラシオス神父という方でした。洗礼前に偶然フランシスコ・ザビエルの話題が出ました。私は、ここぞと、ばかりに「南蛮のみち」の受け売りを披瀝したところ、神父様がとても驚いた様子。何と神父様も今はスペインの自治州となっているバスクのお生まれなのでした。神父様が選んだ私の霊名が、フランシスコ・ザビエルになったのは当然の流れでしょう。

今回、この文章を書くにあたり、久しぶりに「南蛮のみち」を再読したのですが、改めて司馬さんのカトリックへの洞察の深さに感嘆しました。もちろんこの本は、信仰や教義を主題にしているわけではありませんが、堅牢な歴史考証と豊かな想像力で、フランシスコ・ザビエルの実際の足跡だけでなく、内面の旅までを追体験しているようです。特にまだ聖職者を志す以前、パリでのイグナチオ・デ・ロヨラとの出会いの描写は、青年フランシスコの肉声が伝わってきます。

この本は、カトリック信徒ではない人の知的好奇心を満足させるだけではなく、信徒の人にも興味深い内容を持っていると思います。今一度、カトリック信仰が、どのような経緯で、どのような人々の手によって日本にもたらされたかを考える、良い機会になるのではないでしょうか。