2017年12月12日火曜日

フランチェスカの還暦祝い

先週の土曜日、前々から予定されていた、家内の友人フランチェスカ・イングレスの60回目の誕生日パーティ、日本風に言うと還暦祝いに家族三人で出席しました。

フランチャスカは、家内が以前勤務していた、フィリピン大学ビサヤ分校の元教授夫人。旦那さんは転職して、別の大学の教授をしていますが、今でも昔の交友関係は途切れなく続いていて、見覚えのある、家内の友達がたくさん招待されていました。

元々が、相当な資産家のイングレス・ファミリー。分校のあるパナイ島(ネグロス島の西隣)の州都、イロイロ市内に敷地1000平米の邸宅を構えています。自宅を計画中の約10年前、設計を依頼した日本人建築家に同行していただき、フィリピン住宅の参考に、この家を見せてもらったりしたほど。

ネグロス島とパナイ島は、フェリーで約1時間の距離。天候さえ荒れなければ、ドア・ツー・ドアで3時間程度。旅客鉄道がないネグロスのことなので、島内の移動よりもずっと便利。島の反対側とは言葉が違うのに、海を隔てたイロイロと同じ方言なのも当然だと実感します。


イロイロ港の風景


バコロド〜イロイロ間のフェリー

当日、朝7時半に家を出て、パーティ会場のイロイロ市内のホテルに着いたのは、お昼前の11時。相当な広さのボールルーム貸切で、プロの司会が付いての本格的なもの。日本の感覚で言うと完全に結婚式のレベルです。



とは言ってもやっぱりフィリピン。開始時間はズルズルのダラダラ。11時と言われていたのに、時間通りに会場入りしたのは、私たち家族だけ。まだ設営が終わっていなくて、フランチェスカの息子三人と、その中の一人と婚約中のお嬢さんが、忙しそうにしてました。お金持ちのパーティでも、まぁ、そんなものです。





さて、フィリピンでは「還暦」に相当する言葉はありません。ただ誕生日祝い、特に10年毎の節目には盛大なパーティをすることが多く、フィリピンでも60歳で定年退職が一般的なことから、いつもより大掛かりなお祝いになるらしい。

パーティの主役フランチェスカは、昔から明るくて、声が大きくて、すっごいお喋り。大阪の嬉しがりのオバちゃん、と言った感じの人です。60歳の誕生日ともなれば、さらに輪をかけてのハイテンション。また旦那さんが、大学教授のイメージとは懸け離れた、これまたお喋りで始終ジョークを飛ばしている陽気なオジさん。最初からパーティは盛り上がりまくってました。

フランチャスカのお祝いと言うより、もう一回結婚式するんか?というほど夫婦で大はしゃぎ。また本人とその家族だけでなく、ノリの良いことでは世界屈指のフィリピン人の集まり。冒頭の「ハッピーバースデー」など、いきなり全員で大合唱です。


イングレス夫妻

さらに大騒ぎなのは、写真撮影。会場の一角には撮影ブースが設けられ、友達や親戚同士で、いつでも写真取り放題。その場でステッカーに印刷してくれれます。また、帽子や王冠などの小道具が用意してあって、参加したお客さんたちは、まるで子供みたいに楽しんでました。



そして正面に設えた、フランチャスカが座るベンチ。プログラムの合間には、順番に主役と並んでの記念撮影。パーティの半分ぐらいの時間は、写真に使ってたんじゃないでしょうか。

忘れてはならないのが、バースディプレゼント。入り口脇に、プレゼントを置くテーブルが用意されいて、来た人が順番に並べていきます。私からの贈り物は、フランチェスカの似顔絵イラスト。還暦だからと、赤いちゃんちゃんこを着る習慣はないフィリピンですが、赤系の画面にまとめてみました。お陰さまで、喜んでもらえたようです。


それにしても、フィリピンのお祝い事やパーティというのは、実にリラックスして楽しめる。多少時間にルーズでも、私の性に合っています。こういうところが、フィリピン暮らしの醍醐味なのかも知れませんね。


2017年12月11日月曜日

私的フィリピン美女図鑑 プールサイド・フィリピーナ


2013年の12月30日、私の敬愛するシンガーソングライターにして、音楽プロデューサーである大瀧詠一さんが亡くなりました。私たち家族がフィリピンに移住して、半年余りの頃のことです。

今50代前後の世代の人なら、大瀧詠一さんの名作、1981年発表の「A LONG VACATION」を知らない人はいないでしょう。「君は天然色」「恋するカレン」「さらばシベリア鉄道」など、ごく最近になってもテレビCMに繰り返し使われ、文字通り時代を超えた楽曲の数々。私が美術系大学に入学する直前のリリースでした。

私の青春時代のBGMとでもいうべき、このアルバム。どの曲も、当時の友人やガールフレンド、学園祭や卒業制作の風景などを思い出させてくれます。アルバイトして買ったウォークマンで、カセットテープが擦り切れるまで聴きました。そして36年経った今でも、スマホのプレイリストには、ちゃんと入ってます。

音楽だけでなく、永井博さんが描いたレコードジャケットのイラストにも、ずいぶん影響を受けました。永井さんにとってもこのアルバムは、あの独特の爽やかでクリアな世界観を世に知らしめた代表作。やっぱり「典型」の創出はすごいこと。大瀧サウンドと同様、今でもその存在感は圧倒的。

ということで今日のフィリピン美女図鑑は、大瀧詠一さんの4回目の命日を半月後に控え、アーティストお二人に敬意を込めて描きました。

美女図鑑では珍しく、背景のイメージを先に決めての描画。いつも女性を先に描き上げて、どんなバックにするか頭を悩ませてるのが、今回は、近景は南国のプールサイドで、遠景は青い海と空は、完全固定。それに似合うビキニのフィリピーナのイメージを探すのに、時間を費やしました。


プロポーション抜群で、褐色の肌。ロングの黒髪に真っ白な水着。そして、出来上がってから気がつくと、まるでアグネス・ラムさんみたい。「A LONG VACATION」の頃に活躍されてたモデルさんです。真上からの直射日光を浴びる女性を描いたのも初めて。これは思ったよりも難物でした。

折しも日本では、12月にしてはかなり厳しい寒波が到来しているんだとか。ネグロスは雨季も一段落したようで、ここ数週間は、安定した晴天の連日の夏日。南国の日差しを少しでもお裾分けできればとの願いを込めて、このブログをお届けします。


過去の「私的フィリピン美女図鑑」は、こちら。
王女カンシライ
マイティ・フィリピーナ
クリスティン
サウンド・オブ・パラダイス
フィリピーナ in キモノ
マニラ・ガール
スーパーの警備員
タクロバンの薔薇
ジュリア・バレット
オフィレニア5人姉妹
ホワイトレディ
メイン・メンドーサ
スーパーの警備員 再び
日比カップル

2017年12月8日金曜日

フィリピンで12月8日に思うこと


今年もまた、12月8日の開戦記念日が巡ってきました。1941年(昭和16年)のこの日、現地時間の12月7日早朝、太平洋上の日本海軍の空母から飛び立った、350機を超える艦上戦闘機や艦上爆撃機が、ハワイ真珠湾のアメリカ太平洋艦隊の基地を奇襲。戦艦アリゾナ、オクラホマを始めとする、湾内に停泊していた艦艇に壊滅的な損害を与えました。

その後4年間続いた太平洋戦争で、日本が実に高い代償を支払うことになったのは、みなさんご存知の通り。それだけではなく、東南アジア諸国も戦いに巻き込まれ、特にフィリピンは、100万人以上と言われる犠牲者を出したことから、この12月8日は、フィリピンにとっても運命の日となってしまいました。

そしてつい先日、フィリピンのスリガオ海峡付近で、海底に沈んだ旧日本海軍の5隻の艦船が発見されたとのニュースが。見つかった戦艦「山城」「扶桑」、駆逐艦「満潮」「朝雲」「山雲」は、1944年(昭和19年)10月のレイテ沖海戦に参加し、その戦闘海域の一つ、スリガオ沖で撃沈されました。

レイテ沖海戦は、史上最大の海戦とも呼ばれ、日本は戦艦3隻、空母4隻を含む、当時の保有艦船の大多数を失い、事実上これをもって旧日本海軍は消滅。またこの海戦では、神風特別攻撃隊が初めて出撃したことでも知られています。

私はこのブログで、過去の日本人を賛美したり、逆にその行いを非難したりするつもりはありません。ただ、フィリピンに住む日本人としては、この国で何があったのかは知っておく必要があると思っています。

私自身、戦争が終わって20年近く経ってから生まれたので、当然ながら戦争経験はなく、フィリピン人の家内の親族や友達で、実際に会ったり話したりする人も、そのほとんどが戦争を知らない世代。ことさら、過去の戦争について議論することもない。

だからと言って、あまりに歴史に無知なのは考えもの。ネグロスに住んでいても例外ではありません。この地は、レイテ、マニラに次ぐフィリピン第三の激戦地とも言われ、日本兵だけでも8000名以上が命を落としています。(多くは戦病死・餓死)

このシライ市内でも、日本軍が遺棄した機関銃が保存されていたり、多くの日本兵が亡くなった山岳地帯のパタッグでは、今でも深夜、行進する軍靴の響きが聞こえるとの怪談が語られたり。


当然ながら子供たちは、学校の授業やお年寄りたちから、当時この島で何が起こったかは、ちゃんと聞かされています。何かの折に、そんな話になった時、一方の当事者である日本人が、たとえ若い世代であっても、何も知りませんというのはあまりに恥ずかしい。

ちょうど昨年(2016年)の今頃、私の80歳になる両親が、ネグロス島の自宅にしばらく滞在しました。プラモデル好きの父親が、暇つぶしにと持ってきたのが、戦艦武蔵のキット。やはりレイテ沖海戦で沈められた日本の戦艦です。

戦争当時は小学生だった父も、フィリピンとなると何か思うところがあったんでしょうね。数日で武蔵のプラモデルを組み上げて、お土産替わりに置いていきました。今でも我が家のリビングに飾ってあります。



2017年12月6日水曜日

ポンセチアの真実


9月からクリスマス商戦が始まり、ラジオからはクリスマスソングが流れだすフィリピン。寒くなるわけでもなく、紅葉も雪も無縁な熱帯ということもあって、12月になっても全然クリスマスの気分になれません。私など、もう3ヶ月もクリスマスシーズンに付き合わされて、ちょっと疲れているぐらいです。

とは言え、わずかながらも季節を感じさせるものもあります。一昨年(2015年)、11月末の家内の誕生日に、小学校からの親友マジョリーがくれた一株のポインセチア。気温も日照時間も年中ほとんど変わらないフィリピンなのに、12月になると、ちゃ〜んと赤く色づき始めます。こちらでも、ポインセチアはクリスマスのシンボル。やっぱり鮮やかな赤と緑の組み合わせは、国籍を問わずクリスマスカラー。

もらったのはいいけれど、日本で市販されているような可愛らしい鉢植えサイズではなく、大人の腰の高さよりやや低いぐらい。植木鉢には大き過ぎるので、仕方なく庭の一角に植えることに。

「ポインセチアって、育てるのが難しいのよね。この子にはセティーって名前をつけたから。それじゃ、セティーをよろしく〜。」と、送り主のマジョリー。何だか、手のかかる仔犬か仔猫でも押し付けられた気分。

ところがセティー君は、まったく手のかからない健康優良児。しばらく放ったらかしにしていて、ある日気づいたら、一回りぐらい大きくなってました。2年経った今では、私の背丈に追いつこうという勢い。そして今年も律儀に、何枚かの葉が真っ赤に。



去年に比べるとペースがゆっくりなのは、ここ何ヶ月か雨が多かったからでしょうか。それにしてもポインセチアって、こんなにデカくなる植物だったんですね。調べてみたら、原産はメキシコなんだそうです。やっぱり元々気温の高い場所の生まれ。

ちなみに和名は「猩々木」ショウジョウボク。猩々とは想像上の大酒飲み妖怪。その赤い顔が名前の由来。赤い色だけのことだったら、もう少し可愛い名前にしたらいいのに。シクラメンの和名「豚の饅頭」よりはマシですが...。

ポインセチアに限らず、よく知っていると思っていた熱帯植物が、実は意外な姿だったというのは、時々あります。バナナなんて子供の頃から食べているのに、実物のバナナの木を見たのはフィリピンに移住してから。正確には木じゃなくて、多年草。一回実るとその株は枯れて、横から次のが生えてくる。

パパイヤもジャックフルーツも、成ってるのは見たことなかったし、ブーゲンビリアがあんなにトゲだらけ、というのも知りませんでした。なるほど。だからブーゲンビリアを防犯目的で、フェンスに絡ませている家が多いのか。


2017年12月5日火曜日

シライのカフェ巡り


空から見たシライの中心部
出典:philstar

私たち家族が住む、人口12万人のシライ市。フィリピン中部のビサヤ地方に位置し、セブの隣、ネグロス島にある中規模都市です。州都バコロドには車で20分程度の距離で、市内には約10年前にバコロド市街地から移転した空港があり、たいへん便利。

私が、このシライ出身の家内と結婚した20年前。のどかなだけが取り柄の鄙びた地方都市だったのが、空港ができた頃から次第に開発が進み始めました。私たちが移住した5年前に、ようやく市内に初めて交通信号が設置され、喜んだものです。

それが今では、新しいスーパーはオープンするし、スポーツジムは2箇所、来年にはとうとう大型のショッピングモールが開店。さらには、空港近くにアミューズメントパークも建設中とのこと。このブログを始めた時は、シライ市の枕詞に「片田舎の」とか「クソ田舎の」とか書いてましたが、そろそろ違う言葉に変えた方がよさそう。


建設中のショッピングモール
ガイサノ・シティ

シライ市役所にも観光課があって、それなりに仕事をしています。フィリピン国内で観光地としてシライが紹介される時には「ネグロス島のパリ」というキャッチフレーズ。いくらなんでも、これは盛り過ぎ。

しかし「パリ」には遠く及ばなくても、それを目指しているかのように、結構おしゃれなカフェができ始めました。ということで今回の投稿では、シライ市内のカフェをご紹介します。


1. エル・イディアル El Ideal







まずは老舗から。昔からあるカフェといえば、トタン屋根にコンクリートむき出しの内装で、カフェとは名ばかりのコーヒーが飲めるだけの休憩所。エル・イディアルは、その中では別格の存在です。創業が1910年代で、すでに100年の歴史を持つ、老舗中の老舗。

創業当時からあまり変わっていないと思われる店内では、喫茶だけでなく、自家製のパンやパイ、軽い食事なども提供。観光客の格好の投錨地で、シライの土産物も販売。私も、日本からのお客さんは、必ずお連れしてます。


2. カフェ1925 Cafe 1925







出典:RJD Exporer.com

エル・イディアルと並んで古くからある(らしい)のが、カフェ1925。詳しくは知りませんが、創業の年を屋号にしてるんでしょうね。店内はこじんまりして、元々は個人住宅だったようです。落ち着いた雰囲気で、借家住まいだった頃には、パソコンを持ち込んで、ブログを書いたりもしました。しっかりした食事もできます。


3. ザ・マンション The Mansion



すんごい名前。でもこれは、嘘偽りのない本物のマンション(邸宅)。かつての富豪が住んだ旧宅が、文化財として保存されていて、昨年からカフェ・バーとして営業が始まりました。エントランスには赤い絨毯が敷いてあるし、内装は昔のまま。...と見てきたように書いてますが、実は私はまだ入ったことがないんですよ。このクリスマス休暇に、ぜひ家内と一緒にディナーを頂きに行こうと目論んでおります。


4. アン・コ・ケーキ Ann Co Cakes






ようやく、中も外も新しいカフェです。店名は、餡子(あんこ)ではなく、オーナーの名前。シライ市内では珍しく、甘すぎないケーキを食べられる。店で出されるケーキはすべて自家製。先月の家内の誕生日には、ここでバースディケーキを購入。このレベルならば、日本にそのまま持っていっても、繁盛しそうです。


5. カフェ・ヴェロ Cafe Velo




私の知る中では、シライ市内で一番新しいカフェ。水色の自転車が目印。およそ、おしゃれなカフェには向かないような、タイヤの修理やさんや建材屋が軒を並べる、比較的交通量の多い道に面しています。建設中の時から、一体何ができるんだろうと気になってました。

ここも私は、まだ入ったことがないものの、最近、FB友達の日本人のお嬢さんに報告いただきました。アップされた写真を見ると、想像以上に明るくてしゃれたお店。ここも近いうちに、行ってみなければ。


これ以外にも、開店して数年のお店がいくつかあるし、ショッピングモールの中にも何店かはオープンすると思われます。それ全部を含めても、歩いていける範囲。(暑いので、本当に歩くフィリピン人は滅多にいません。)それでなくても、生存競争が厳しいフィリピンの飲食店。おそらくこれから淘汰が始まるでしょう。さて、何軒生き残ることができるか。しばらくは注意深く見守りたいと思います。


2017年12月3日日曜日

日本語についての話


グローバル化とか何とか、散々言われて久しいのに、相変わらず日本には外国語に苦手意識を持つ人が、少なくないようです。小学生から英語ネイティブの教師に、授業中日本語禁止で教えたら、あっと言う間に解消する問題なのに、何十年経っても変化の兆しが現れない日本の外国語教育については、以前にも投稿しました。

しかし根本的な話として、そもそも日本国内で生活する限り、日本語が話せて読み書きできれば、何ら支障がないのも事実。これは当たり前に思われるかも知れませんが、高等教育をすべて自国語で受けられて、大抵の専門分野で外国語の助けがいらない国は、それほど多くはありません。フィリピンに住んでいると、それを実感します。

最近では比較的安い費用で、お手軽に英語留学ができる国として、日本や韓国からたくさんの学生が渡航。ほとんど誰でも英語を話し、それに加えて公用語のフィリピノ語や、方言まで理解する。場所によってはトリリンガルも珍しくないフィリピン。日本人からすれば、羨ましく見えます。

しかしいいことばかりではありません。小学校から最低でも二つ以上の言語を勉強する労力に加え(ネグロスの小学校では三つ)、算数や理科などの基本的な教科は英語で教えるフィリピン。つまり、英語でつまずいてしまうと大学進学や専門職に就くことはまず絶望的なのが、この国の現実。フィリピンの言葉で教えようにも、欧米から持ち込まれた専門用語の訳語が存在しません。

日本の場合、幕末から明治にかけて、大量に入って来たヨーロッパ由来の言葉は、先人たちが苦労しながらすべて翻訳。日頃何気なく使っている漢字熟語が、実は日本人によって考案されたり、古い漢籍から掘り起こして転用された和製漢語。

文化、文明、民族、思想、法律、経済、警察、宗教、哲学、意識、科学、物理、時間、文学、電話、美術...。などなど、挙げていけばきりがないほど。今では本家の中国に逆輸入して使われいる言葉も多数あります。「共産主義」が和製漢語なのは有名な話。

当用漢字だけでも1850もあり、アルファベットに比べると学習はたいへん。ところが、一度覚えてしまえば、表音文字ではなく、一字毎に意味を持つ表意文字の強み。新たに考案されり、初めて目にする熟語でも、だいたいの意味は理解できます。例えば「形状記憶合金」と書いてあれば、現物を知らなくても、元の形を覚えている金属なんだろうなと推測が可能。

利点はいくらでもある、漢字の使用。それに加えて仮名混じりや音読み訓読みの使い分けは、表音・表意のどちらかだけに比べると、はるかに幅広い表現力を持ち、現代日本語を駆使すれば、学術論文も詩文も、裁判の判決文もラブレターも、自由に記述することができます。

ただ最近になってクローズアップされてきたのは、自動翻訳時の問題。例えば、英語とスペイン語は、同じアルファベットを使うというだけでなく、親戚のような言語間の距離らしく、よほど晦渋な文章でなければ、ほぼ正確な訳文が出来ます。実際に、スペイン語圏の人と、グーグル翻訳を使ってチャットをしたことがあります。私がそこそこ使える外国語と言えば英語だけ。つまりグーグルを介して、英語とスペイン語で会話しました。

かなり長いやり取りをしたのに、相手は私がスペイン語を直接タイプしていると思ったようです。君はスペイン語が上手だ、と驚かれました。それは私じゃなくて、グーグル先生ですと、最後に種明かし。

そして、同じヨーロッパ系の言葉だけでなく、英語とタガログ語も、自動翻訳に関してはかなり相性がいいらしい。前述のスペイン語と同様に、英語〜タガログで翻訳した文章を家内に読んでもらったら、ほとんど問題無しで家内もびっくりした様子。

ところが日本語からの直接翻訳では、こうはいきません。少し前にネットで話題になった、グーグルの「トンデモ英訳」。「今に見てろ」が「Mitero Now」、「鋭いツッコミ」が「Sharp Tukkomi」になったり。(すでにこの例文には対策済み)

私は専門家ではないので、こうなる原因は分かりません。ただ、漢字とひらがな、カタカタを混ぜて使うことが、自動翻訳を難しくしてるんだろうなぁと思ってみたり。ここがブレークスルーされれば、日本人には画期的な世界。現在、英語で書かれている記事が、全部日本語で読めるとなったら、日本人のものの見方が変わるのは間違いありません。

また情報を取り入れるだけでなく、情報発信も。例えばこのブログ。今は、日本語で書いていますから、対象は日本語を読める人だけ。自動的にほとんどの読者は日本人、ということになってしまいます。ところが、世界の誰でも理解できるとなったら、当然書く内容も変わるし、意識も変わらざるを得ません。

なんだか遠い未来のことのようですが、意外とそんな時代はすぐ近くなのかも。


2017年12月1日金曜日

もしも就活するならば


フィリピンの、それも一般日本人には馴染みのないネグロス島なんかに移住したら、日本人を会うこともなくなり、2〜3年もしたら日本語を忘れちゃうんじゃないかと、移住前には本気で考えていました。

することがなくて、毎日暇を持て余すだろうから、WOWOWで大量の映画を録画してDVDに保存し、数千冊の蔵書を船便で運び、万全の時間つぶし対策。ところが実際は、意外にも毎日することはいくらでもあります。

まずは、だいたい2日に一度更新している、このブログ。思いつくまま書きなぐっているように見えるでしょうけど、これでも文章化の作業は、数時間は要します。そして、毎日の食事の用意と子供の送り迎え。最近ではイラスト描きが新たな日課。イラストの方は私の性格なのか、回を追うごとに凝ってきて、当初は1週間に1枚ペースだったのに、今では完成に10日から2週間。

考えてみると、どれも自分一人で完結する事ではなく、全部誰か相手がいる仕事。食事など、一人暮らしだったら絶対長続きしなかったでしょう。特にフィリピンなら、料理ができるメイドさんも雇えるので、間違いなく何もかもお任せになっていたと思います。

そしてブログにしてもイラストにしても、拙い内容にもかかわらず、毎回楽しみにしていると言ってもらえるのが嬉しくて、つい夜更かしして作業に没頭したり。さらに広告料の名目で、グーグルからお小遣いまで。これは辞める理由を探す方が難しい。

加えてまったく予想外に、日本人の新しい友達が増えています。以前にも書いたように、このブログが橋渡し。マニラ・セブほどではないけれど、バコロドやドゥマゲテを擁するネグロス島には、日本のNGO活動や英語留学で、毎年相当な数の若い日本人がやってきます。そんな人たちが、私のブログを目敏く見つけて、連絡してくれる。

事前にメールのやり取りやチャット・SNSで、人となりやネグロス渡航の理由をお知らせいただいて、気が合いそうな人は、我が家にご招待するパターン。学生さんだったり、大学卒業して間がない若者のこと。食事やお茶をご一緒しながらの話題は、就職関係になることが多い。

留学にしろインターンにしろ、わざわざ海外の、しかもこんな辺鄙な島まで来るぐらいだから、日本国内限定で仕事を探す人はあんまりいません。日本の会社に勤めるにしても、やっぱり海外関連業務を視野に入れている人がほとんどな印象。

もし私が、今二十歳そこそこだったら、どんな進路を選んだでしょう。私が就職した1980年代は、大企業に入るのが確かな道と考えるのが一般的。私も某大手家電メーカーに、工業デザイナーとして入社しました。

1990年代末までは、この選択の利点は実に大きくて、自分の手がけた製品が店頭に並ぶのを見る喜びを味わい、海外担当に抜擢されたことで、東南アジア・中国・欧州・米国など二十数ヶ国での仕事を経験しました。結果的に生涯の伴侶と出会いにも繋がった。

しかしその後は、まったく状況が変わりました。2000年を過ぎた頃から、中国・韓国メーカーの台頭で、どんどん商売が難しくなり、お客さんが喜ぶものより、メーカー側が持っている技術を使って作れるものという、本末転倒な議論に費やす時間が増え、物事がなかなか決まらない。決断が遅れるうちに、ライバルは次々に新アイデアを商品化し、後追いになる悪循環。

それでも1960〜70年代の成功体験から抜け出せない日本企業が多く、その結果が年間数万人の自殺者と、報酬の伴わない長時間労働。これは皆さんよくご存知の現実。日本にいる限りスケールメリットは、ほぼなくなったと言ってもいいでしょう。

ならば、まずは自分が好きなこと、ワクワクできることができる職種・職場を最優先にするべき。安定感や規模の大きさだけで選ぶと、必ず後悔します。できそうなことより、やりたいことが大事。好きなことができて、大きな会社だったら言うことはないですが、そんな虫のいい条件は、ある程度の実績がないと難しい。

日本に留まることも、あまり意味がなくなっています。少なくとも若いうちは、年齢や経験ではなく、実績をストレートに評価される国の方が働きやすいし、生きやすい。私の場合、海外出張してる時は、自分でも気恥ずかしくなるぐらい活き活きして、帰国が近づくにつれて、気分が落ち込んだものです。

もっと言うと、組織に所属する必要すらなく、インターネットを上手に使えば、いくらでもビジネスチャンスがある。リアルな店舗なしに、初期投資を最小限に抑えながら、少しづつ商売を広げることもできる時代。

今の若者はたいへんだと言う声も、あちこちから聞こえてきます。何のアイデアもなく、多少のリスクを恐れてばかりなら、確かにたいへん生きにくい時代。最初の一歩を踏み出せるかどうかで、その後の人生がまったく別物になる。今の生活に不満があるわけではないけれど、これから就活をしようという人が、時々羨ましくも思えます。