2017年8月22日火曜日

発電機は精神安定剤

ここ半年ほど、不調が続いていた我が家の発電機。バッテリーを搭載して、車と同じ要領でキーを回して始動するタイプ。購入後2年目にして、キーを回しても無反応になってしまいました。そこでバッテリーのみ取り外して、近所の車のパーツ屋さんで充電。

その時はそれでエンジンが掛るように。停電がなくても週に1回ぐらい、10分程度は運転するようと教えてもらいました。これで一件落着かと思い、言われた通り1週間後に動かそうとしたら、またもや無反応。今度はバッテリーそのものを新品に交換。ところがさらに1週間後に、同じことに。

私は、日本で発電機など買ったことも使ったこともなく、そっちの方面の知識はほぼ皆無。おそらく大抵の日本人は、そんな感じだろうと思います。よほどの災害でもなければ、長時間の停電になることはない日本。たまに落雷などで電気が止まっても、ものの数分で復旧するのが当たり前。ネグロス島に住んで、それがいかに有難い状況だったかを、思い知るハメに。

無知だったので、約10万円もする買い物にしては、適当に選んでしまいました。燃料費が安いからディーゼル、始動が簡単だからバッテリー搭載。後から日本人の知り合いに聞いたら、ガソリンエンジンの方がメンテナンスは楽なんだとか。また、バッテリーは数年でダメになるし、これが思ったより高価。

うちのディーゼル発電機、バッテリーなしでも手動で始動できるよう、ワイヤーが付いているのに、これがいざやってみると、かなりの腕力と微妙なタイミングが必要。小一時間も格闘しましたが、私にはどうしても動かすことができませんでした。

ところがしばらく停電もなく、何となく忘れていた、ここ最近。突如として、数日置きに停電が頻発する事態に。特別なことがあったわけでもないけれど、なぜか続くときは続くんですよ。特に困るのが夕飯の支度時。炊飯器も電子レンジもダメだし、真っ暗になるし。あの灯りが消えた瞬間の「ガッカリ感」は、日本では分からない感覚。

とうとう我慢できなくなって、この土曜日、怪力メイドのネルジーに手伝ってもらい、大汗かいて発電機を車に積み、購入元の隣街バコロドの販売店へ。アフターサービスが、からっきしダメなこの国。電話一本で出張修理なんて気が利いたことは、まずしてくれません。

とは言え、さすがに餅は餅屋。修理担当のオっちゃんに見せたら「これはスターターがダメだ」と、すぐに悪い箇所を指摘。そうか、そっちだったのか...。昼食を食べに行っている間に修理完了。結局バッテリーも、また新しいものに交換したり、フィルターがヘタっていたりで、1万円近くの修理代。発電機そのものを買い換えるのに比べたら、はるかにマシだけど、決して安くはありません。


ということで、久しぶりに「停電したらどうしよう」との心配が解消。発電機って、実用品である以上に、日常生活での精神安定に絶大な効果があったんですね。修理が終わって、それがよ〜く分かりました。

さて、それから4日が経過。早速、日曜日の朝食準備中に短いのが1回。そして連休明けの今日、火曜日に早朝から約5時間の長時間停電が。いずれも発電機が大活躍で、滞りなくお米炊いたりトーストを焼いたり。発電機が初体験だった仔犬のゴマは、始動の轟音で一目散に逃げてしまいました。

聞くところによると、以前に比べてマニラ首都圏では、ずいぶん停電が減ったそうです。ネグロスでも、たまに半日の計画停電があるものの、だんだんと少なくはなってきている。それでも、4年前のスーパー台風ヨランダの記憶も生々しく、電気が何日も止まる可能性もあります。それを思うと、やっぱりまだまだ発電機とは縁が切れそうにありません。


2017年8月18日金曜日

「まだ東京で消耗してるの?」を読んで


しばらく前に出版された、有名ブロガーのイケダハヤトさんの本「まだ東京で消耗してるの?」。結構話題になったようですね。私も先日、電子書籍版を購入して読んでみました。

ネット上では、既にずいぶんたくさんの書評があって、毀誉褒貶さまざま。ここで本の内容を改めて詳しく説明はしませんが、要約すると、何をするにも不便で生きづらい東京を捨てて、田舎に移住して違う環境に身を置けば、人生が変わる。昔と違って21世紀の今では、田舎のメリットは驚くほどたくさんありますよ。ということ。

フィリピンのネグロス島に移住した私としては、つい「まだ日本で消耗してるの?」と読み替えたくなります。ググってみると、やっぱり同じこと考えている人が多くて、この投稿のタイトルで真似するのはやめたほど。

でも読後感としては、海外移住を考える際に参考にできそうな記述も多々ありました。例えば「東京の子育ては、親に罪悪感を抱かせる」「地方で豊かな人生を生きなおす」「月3万円で駐車場・庭・畑付き一軒家に暮らす」「地方移住で過酷な子育てから解放される」

これは、「東京」を「日本」に、「地方」を「ネグロス島」に置き換えても十分通じる、今現在の私の実感。

小学生の子供を連れて、家族でネグロス島シライ市に来て、一番良かったのは住環境の劇的な改善と、子育てのしやすさだろうと思います。ただし私の場合、住みやすい家を建てるには、10年がかりの周到な準備があってこそ。誰でもここに来れば、広くて快適な家に住めるわけでもありません。

また子育てについても、家内の実家近くに住んでいる関係で、親戚の協力を得られたり、子供自身が思ったより早くネグロスの暮らしに馴染んでくれたことは幸運でした。それにしても、子供がたくさんいるのが当たり前で、いじめの心配をしなくてもいいのは大きい。

次に、「田舎に行きたいなら『二段階移住』が大前提」「移住地には難易度がある」「移住前に旅行して、知り合いを作っておく」

こちらは、フィリピン移住(おそらくそれ以外の海外移住)にも適用できる心構え。日本並みの国土面積と人口を擁するフィリピン。場所によっては住み心地にも、天地ほどの差があります。よくあるパターンが、フィリピン人配偶者の故郷にそのまま住むスタイル。これも必ずしも悪いとは言いませんが、配偶者の家族や親戚が付き合いやすい人とは限らないし、住むにも子育てにも劣悪な環境だったりする可能性も。

最初のベースキャンプとして、現地での義父母宅やその近所に数週間から数ヶ月ほど滞在するのはいいけれど、いきなり土地家屋に投資してしまうのは、まったくお薦めしません。また信頼できるフィリピン人(親戚でも友人でも)を確保しておくのは、本当に重要。

私の場合、結果として家内の生まれたネグロス島のシライに住んでいます。しかしこれは、15年間も里帰りの度に、本当に移住して大丈夫かどうかを見極めた結果。もし不安があれば、同じネグロス島内でも、別の街を探していたでしょう。

さて、フィリピンと決定的に違うのは、仕事に関する記述。暮らすにはいい場所でも、日本にいた時よりも収入がアップしたり、見方を変えるだけで、いくらでもビジネスのチャンスが転がっている...とは思えないフィリピン。特にマニラ首都圏の過密や交通渋滞ぶりは、東京とさほど変わらないか、もっとひどいかも知れません。

ここネグロスでも、ネット活用や日本人顧客を見つけるなどの活路を見出せば、可能性がないわけではないものの、これから学ぼうという若い人ならばともかく、やはりフィリピンでも役に立つ技能や知識がないと、こちらで生きる糧を見出すのは難しい。ということでネグロスに住んで、「まだ日本で消耗してるの?」と言うには、ある程度の蓄えができて、働かなくても生活できる備えが必要なようです。


2017年8月16日水曜日

私的フィリピン美女図鑑 マニラ・ガール


戦争や特攻隊のことを2本続けて投稿したら、気力を使い果たしてヘトヘト。気分を変えて、今週の美女図鑑です。

フィリピン美女と聞いて、やっぱり多くのオジさんたちが思い浮かべるのが、フィリピン・パブやゴーゴーバーで働くホステスやダンサーでしょう。正直に言いまして、私もその世界を知らない訳ではありません。1995年、30代の前半に仕事で初めてマニラに来た時、夜の接待は案の定ゴーゴーバー。

ご存知ない方のために、説明をしておきます。ゴーゴーバーとは、店内にステージが設置してあるバー。ステージでは番号札をつけた女性が踊っていて、気に入った人をその番号で指定すると、お客さんの席まで来て一緒にお酒を飲んでくれるというシステム。女性と直接交渉してOKならば、店外デートも可。表向きは早退の罰金、バー・ファインを支払ってのプラーベートなお付き合いなのですが、要するに公然たる売春行為です。

マニラを始めてとしてフィリピンの主要な大都市では、だいたいどこでもこの類の店はあって、それ以外ではタイのバンコクが有名。念のために書いておきますが、フィリピンでもタイでも、売買春は違法。特にフィリピンで相手が18歳未満だった場合、極めて厳しい罪に問われます。

私も初めてゴーゴーバーの店内に入った時は、驚きのあまり目が点に。「ジャパゆきさん」が流行語になり、日本でもテレビや雑誌で盛んに情報が流れていたので、映像や活字では見聞きしたことがあっても、実際にその場にいると、熱気で圧倒されてしまいました。

興味がない人は眉をしかめるでしょう。それでもフィリピンにすれば、外貨獲得に小さくない効果を持つ一大産業。国籍に関係なく、こういうのが好きな男性にとっては一種のパラダイス。のめり込んで、母国での生活を捨ててでもフィリピンに通い詰め、全財産を無くしてしまうのも、分からないではない。(あまり利口な散財とは思えませんが)

という訳で、今回のイラストはこの場で披露するかどうか、少々迷ったものの、好むと好まざるに関わらず、これもまたフィリピンの一面。ただし見ていただくからには、手抜きはせず、僅かな記憶と想像力を総動員して、いつになくディテールまで丁寧に描画。


とにかく情報量を増やし細かく描くことで、あの一種独特の猥雑な感じを、できるだけ美しく表現してみました。背景にはマニラ首都圏マカティ市の高層ビル群や、フィリピン名物のジプニーも。おヒマのある方は、じっくりご覧くださいませ。


過去の「私的フィリピン美女図鑑」は、こちら。
王女カンシライ
マイティ・フィリピーナ
クリスティン
サウンド・オブ・パラダイス


2017年8月14日月曜日

終戦記念日に思うこと 国の礎?


前回に続き、今日も終戦記念日に思うことです。

前回は、マバラカット飛行場についてのお話を投稿しました。日本では、この地に特攻隊員の像が建てられたことはあまり有名ではなく、私もそういう施設がマバラカットにあると知ったのは、フィリピンに移住してからでした。

最初にネットで見たのは、ここを訪れた日本人によるブログ。現地の看板屋さんに依頼して安価に制作したであろう、およそ慰霊や平和祈願を目的に作られた場所にそぐわない、俗っぽい案内板の写真を見た時には、あまりの配慮のなさに、一体誰がどういう経緯でこの施設をつくったのかと訝しんだのは、前回投稿した通り。

さらに何とも言えない違和感を持ったのは、ブログの内容。「今の日本があるのは、特攻隊の尊い犠牲のおかげ」「国の礎となった若者たち」といった、特攻隊礼讃の美辞麗句が並んでいました。気になったので他にも検索してみたら、同様な内容のものばかり。中には「特攻隊はフィリピンでは英雄だった」などという、どう考えても一般的なフィリピン人の意見を、ちゃんと取材したとは思えない記事まで。

「今の日本があるのは...。」「国の礎」と言う人は、特攻がなければ、その後の日本の復興や繁栄はなかった、とでも思ってるんでしょうか。冗談ではありません。今の日本を築き国の礎になったのは、戦火を生き延び、焦土と化した故郷の瓦礫の片付けから始めた、私の祖父母や両親の世代。二度と家族を、戦災や飢餓で苦しめない社会を作ろうと、必死で働いた人々です。

戦略的に意味があったとは考えられない、体当たり攻撃。特攻で命を落とした若者たちは、勝ち目のない戦争の、捨て石になる人材ではなかったはず。生きていれば、高度経済成長の中核を担ったでしょう。ひょっとすると、世界レベルの技術やアイデアを生み出した人だっていたかもしれない。そう考えれば、特攻を命ずることが、いかに愚かで狂気の沙汰だったかと分かりそうなもの。

以下、多数の特攻機が飛び立った、鹿児島県の知覧に建てられた、知覧特攻記念会館のホームページに掲げられた文章ご紹介します。


 この知覧特攻平和会館は、第二次世界大戦末期の沖縄戦において特攻という人類史上類のない作戦で、爆装した飛行機もろとも敵艦に体当たり攻撃をした陸軍特別攻撃隊員の遺品や関係資料を展示しています。
 私たちは、特攻隊員や各地の戦場で戦死された多くの特攻隊員のご遺徳を静かに回顧しながら、再び戦闘機に爆弾を装着し敵の艦船に体当たりをするという命の尊さ・尊厳を無視した戦法は絶対とってはならない、また、このような悲劇を生み出す戦争も起こしてはならないという情念で、貴重な遺品や資料をご遺族の方々のご理解ご協力と、関係者の方々のご尽力によって展示しています。

私は、この文章に、100%同意し共感します。特攻など、絶対に命じてはいけない戦法であり、誰よりも亡くなったパイロットたちが、自分のような死に方をする人が二度とないようにと願っていたでしょう。
そういう意味で私にとって特攻隊員は、きわめて痛ましい戦争犠牲者に他ならず、その死を悼み回顧しこそすれ、決して英雄や軍神に祭り上げてはいけない。それが私の子供や孫たちの世代で、この悲劇を繰り返えさないこと、延いては無意味な戦争をさせないことにつながると信じています。
また、「特攻隊はフィリピンでは英雄だった」という記事。自殺を禁じたカトリックを信じる国民が人口の8割で、今現在、自爆テロを辞さないテロリスト集団と、事実上の内戦状態にあるこの国において、特攻を英雄的行為だと思う人が、どれだけいるというのでしょうか。
終わりに、特攻最初のパイロットで、当時23歳だった関行男大尉が、出撃前、記者に語ったとされる言葉を記します。

日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。


2017年8月13日日曜日

終戦記念日に思うこと マバラカット飛行場


今年も8月15日が巡ってきます。太平洋戦争中、50万人以上の日本人と100万人を超える現地人戦没者を出してしまったフィリピン。ここネグロス島も、マニラ市街戦、レイテ沖海戦に次ぐ激戦地だったそうで、8000人もの日本兵が亡くなりました。フィリピンに住む日本人としては、毎年いろいろと考え込んでしまう時期。今回は、2回に渡って終戦記念日に思うことを投稿しようと思います。


フィリピン・ルソン島、首都マニラから北西約60kmに位置する、東マバラカット飛行場跡。戦争末期の1944年(昭和19年)10月、ここから最初の特攻機が飛び立ちました。その後の3ヶ月間、当地にあった全機体が失われるまで特攻は続けられ、約700名のパイロットが体当たり攻撃で命を落としたそうです。

その後マバラカットは、1947年のアメリカ・フィリピン両政府間で合意された軍事基地協定により、クラーク空軍基地の主要飛行場の一つとしてアメリカ軍に使用され、1975年までのベトナム戦争中には一大軍事拠点でした。

1991年、基地から20kmのピナツボ火山の大噴火で、マバラカットを含む基地周辺は火砕流に埋まり、冷戦終了という世界情勢の変化もあって、クラークはフィリピンに返還。

そして2004年、このマバラカット飛行場跡に、地元の歴史家ダニエル・ディゾン氏の発意で、特攻隊員の像が建立されました。これは1974年に同地に置かれ、噴火で埋没した記念碑に置きかわるもの。フィリピンでの日本兵の残虐行為を目の当たりにしたはずのディゾン氏が、どうしてこれを思い立ったのか、私にはよく分かりません。それでも日本の関係者からの協力もあり、この像の完成以降、かなりの数の日本人がマバラカットを訪れているようです。


出典:Kamikaze Images

像がある敷地内の日本語の碑文には、こうあります。

「マバラカット観光局が神風平和記念公園の建立を推進した理由は、神風特別攻撃隊の栄光を賞賛する為ではなく、その歴史的事実を通じて、世界の人々に平和と友好の尊さを訴える為であります。」

フィリピンに特攻隊関連の記念物を設置するならば、これ以外の理由はないだろうと思うし、国籍に関係なく、すべての戦没者を慰霊する場とすることに、何の異論もありません。

ところが、像そのものや、背景にフィリピン国旗と並んで刻まれた旭日旗のレリーフ、入り口付近の看板の意匠を見ると、私にはどうしても、平和祈念や戦没者の慰霊という意図が感じられない。だいたい看板に使われている「神風」「Kamikaze」の書体からして、まるで安物の商業施設。


出典:Kamikaze Images

マバラカットに関するいくつかの英語の記事を読むと、フィリピンでは、碑文を額面通りに受け入れられない人の方が多数派のようで、肉親を日本兵に殺害された地元住民や、フィリピン大学の教授などからも、像設置への反対意見が寄せらています。

参考:ABS-CBN News / INQUIRER NET / the japan times

同様に多くの特攻機が飛び立った、鹿児島県の知覧にある知覧特攻平和会館と比べると、マバラカットの施設全体のデザインが、いかに配慮に欠けたものかというのが、よく分かります。これでは日本からの観光客集めが目的だと言われても仕方がない。

私は、特攻隊に関して、隊員たちが家族に送った遺書や、生き残った関係者の証言など、若い頃からたくさんの本を読んできました。また関連したテレビのドキュメンタリー番組も、気がつけば必ず視聴。二十歳前後で家族や愛する人たちを残して、死地に赴いたパイロットたちの無念さを思うと、決して彼らのことを忘れてはならないと感じています。

それだけに、現状のマバラカット施設の体裁は、残念でなりません。誤解してほしくないのは、特攻隊員の慰霊と平和祈願のために、何らかの記念碑や公園を作り、そこに参拝すること自体を否定する気は、まったくないということ。だからこそマバラカットが、日本人だけでなく、あらゆる国の人々にこの悲劇の実態を知らしめ、平和について静かに思索できる場所になってほしいのです。

次回に続きます。


2017年8月11日金曜日

宿題なしの夏休み


もう8月も半ばに差し掛かり、今が子供達の夏休み真っ最中の日本。いつの間にか8月11日は「山の日」という国民の祝日になってるし、多くの職場でも来週からはお盆休みということでしょう。

さて、4年前にフィリピンのネグロス島に移住して、子供を地元の小学校に通わせるようになってから気づいたのが、夏休みの過ごし方の違い。フィリピンの場合、一番暑いのが4〜5月で、夏休みもこの時期。日本では40日間というのが普通なのに対して、こちらでは丸々2ヶ月。息子の通う私立小学校では、3月の最終週と6月の初めの週まで休みで、ざっと2ヶ月半近くも登校しません。

さぞや、どっさりと宿題が出るだろうと思いきや、そんなものは一切なし。夏休みが学年の変わり目だということもあって、この長い休みの間、子供はほぼ完全な自由ということになります。

もちろん家庭によっては、サマー・プロジェクトと称して、スポーツやダンス、お絵描きや音楽などの習い事に通わせることもあり、今年は息子も毎日4時間のテニス・レッスンを2週間。従兄姉は、ブラスバンドにサッカーをやってました。

でも、塾や予備校に毎日行かせるとか、大量の宿題が出て、休みの最後になると子供が泣きながら机に向かうという話は、聞いたことがありません。大学受験を控えた高校生にでもなれば、それなりの勉強をしているのでしょうけど、日本のように誰もが大学に行くわけでもなく、公立ならば、小学校から高校までは受験の必要がないので、わざわざ夏休みに追加の勉強をする子供の方が珍しい。

ただし、小学校でも年4回の定期試験がきっちりあって、成績が悪ければ落第もあるのがフィリピン。チューター(家庭教師)を雇う親もいるし、勉強する子は長期休暇以外の、授業のある時期に頑張っている印象です。そして就職時に学歴がモノを言うのは、日本並みかそれ以上。

こんな感じなので、優秀でやる気のある子供でも、頑張って集中する時と、力を抜いて休む時を、自然と理解する。これに対して日本の子供は、夏休みなのに休むことが許されない。勉強もそうだし、クラブ活動でも「強化合宿」などと称して、むしろ夏休みの方が厳しいトレーニング。

そう言えば、昔「キャプテン」という中学野球のマンガがありましたね。真夏に朝から晩まで無茶苦茶な練習して、練習試合を1日3ゲームもこなして、苦労の挙句に全国大会優勝。当時はスポ根もの全盛の時期だったので、何の違和感もなく読んでたけれど、今だったら虐待と言われそうな内容。ああいうストーリーを子供の頃から刷り込まれたから、大人になってから、死ぬまで働いたりしてしまう人間が出来てしまうのかと思ったり。

いつ頃からそうなったのか、よく分かりませんが、どうも日本人は、長期休暇などの空白の時間を過ごすこと罪悪だと、教育されてしまっているらしい。私がかつて勤めていた会社は、日本で最初に週休二日制を導入しました。その時のスローガンが「1日休養1日教養」。つまり2日間、会社に来なくてもいいのは、2日とも休んでいいという意味ではないぞ!と言っていたわけです。まったく大きなお世話。

そんな意識が根付いてしまったものだから、本来休養のための土日なのに、昼まで寝てしまったら大損したように感じるし、たまの3〜4日の休みでも、予定ギチギチの海外旅行をして、平日より疲れてしまう。

どんな分野でも、日本一とか世界一を目指すような人たちは、他人の何倍もの努力が必要なのは分かるけれど、どうも日本人の場合、才能の有無に関係なく、誰もが努力だけは、トップレベルを義務付けられているような気がします。また社会人になってからも、キャリアにブランクが空くことを極度に恐れるし、育児で1年休んで復職することすら、認められないケースの方が多い。

だからと言って、フィリピンのように平日の昼間から、何もしない大人が町中に溢れているというのも考えものですが、疲れたら十分休息が取るという、人間として当然の権利が行使できない社会は、普通ではないでしょう。


2017年8月9日水曜日

私的フィリピン美女図鑑 フィリピーナ in キモノ


皆さまお待ちかねの、今週の美女です。美女なんですが、今日のモデルは家内です。がっかりしてはいけません。「フィリピン美女図鑑」と銘打って、他所の女の絵ばかり描いて、自分の妻を描かないなんてことは、フィリピンでは許されません。これはフィリピーナと結婚した男の、神聖なる義務でございます。

前々回、友達のティンティンのイラストの時もそうでしたが、本人が見るかも知れない似顔絵というのは、実に難しい。まず印象が似ていないといけないし、その上で「そこそこ美人」に描かないとダメ。いくら似てても、本人が嫌がるような箇所を強調すると怒られる。だからと言って美人にしすぎても、皮肉と取られかねない。

ところで家内の顔について。
フィリピン女性と聞くと、目が大きくパッチリしてて、少し前に流行った言い方を借りると「ソース顔」や「濃い顔」を思い浮かべる人が多いでしょう。ところが家内は、フィリピン人から中国人や日本人と間違われるほどの「しょうゆ顔」。目は二重でもパッチリという感じではなく、切れ長の印象です。肌色もそんなに濃くない。

童顔だというのは、このブログでも何度か書きました。結婚した時、既に33歳だったのに、日本では高校生と思われたり。この童顔+日本人顔効果で、日本に住んでいる時、よく道を尋ねられていました。


そして、来日して最初の冬。どうしても雪が見たいと言うので、兵庫県の日本海側にある、城崎温泉へ。当時はまだ新婚早々だったので、張り込んで、城崎マリンワールドに隣接するホテル金波楼(きんぱろう)に泊まりました。

とにかく生まれて初めての日本で、しかも温泉。純和風の食事にして、何も食べられなかったりすると可哀想なので、和牛ステーキも追加で頼むという超豪華コース。ところが生魚以外は、なんでも美味しいと平らげて、結局ステーキは私が頂きました。それより驚いたのが、初めて着た浴衣が不思議なほど似合うこと。

顔つきが南方系っぽくないだけでなく、かなりの撫で肩。食事の用意をしてくれた仲居さんが「本当にフィリピンの方ですか?」と聞き直したほど、浴衣姿がサマになってました。

ということで、今回選んだコスチュームは着物です。結婚して子供までいて、もう50過ぎなのに、なんで振袖なんだというツッコミは禁止。いいんです。フィリピン人はそんなことに拘りません。綺麗だったら何でもいいんです。


一緒になって、来年で20年。いまだに童顔だし、息子のクラスメートの女の子に「マダムは、フィリピンの言葉は喋れますか?」と英語で訊かれたりしてる。ここは家内の生まれ故郷なんですけどねぇ。

過去の「私的フィリピン美女図鑑」は、こちら。
王女カンシライ
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